邦題とか、キービジュアルとか、字幕とか、もう少し考えたほうがいいよね、いい映画だけに…
昨年2024年のカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞したインド映画です。チラシにもなっている上のキービジュアル、よくないですね。いい映画なのにかなり損をしています。

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キービジュアルといい、邦題といい(涙)…

こういう映画ですから。
なぜ人物を横向きにするんでしょう、理解できません。
パヤル・カパーリヤー監督は1986年生まれの39歳の方です。この映画が初の長編劇映画ですが、すでに2021年に「A Night of Knowing Nothing」というドキュメンタリーでカンヌのゴールデンアイ・ドキュメンタリー賞を受賞しています。
この賞は2015年に創設されたもので、カンヌ国際映画祭の公式セレクションで上映されたドキュメンタリーから選ばれる賞とのことです。最優秀ドキュメンタリー賞ということでしょう。このドキュメンタリーは「何も知らない夜」の邦題で今年の8月8日に劇場公開されます。
で、この「私たちが光と想うすべて」です。
それにしてもこの邦題、例によって邦題なんだから気にせずにと思っても気になって仕方ないです(笑)。何が気になるかと言いますと、「すべて」という体言止めにしていますが、この映画「すべて」を描いているわけではなく「想像する」ことを描いている映画です。それに「すべて」って言い切るような映画でもありません。
余計なことでした(笑涙)。
映画の中の3人の女性、みな最後までずっと出口の見えない暗闇の中にいるような状態です。それでも「いろんなもの」の中に「光」を「想像しよう(見よう)」としています。
そういう映画です。
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幻想の街ムンバイの3人…
ムンバイで暮らす3人の女性の物語…
なんですが、ちょっと変わった始まり方をしています。映画始まってしばらく、5分くらいの印象ですが、ムンバイの街を舐めるように撮っていく画にムンバイという街を語るナレーションが入るのです。最初は男性の声で始まりますので、え、誰? と気になりますし、その後しばらくすると女性の声になるにはなるのですが、登場人物の声ではなさそうだということで見終えても何だったんだろうとはっきりしません。
パヤル・カパーリヤー監督へのインタビュー記事を読みましたら、ムンバイの住人へのインタビューの音声だそうです。フィクションとドキュメンタリーの境界を曖昧にしたいとの意図があるようです。
女性の声の部分はこんな感じです。
「ここを夢の街と呼ぶ人もいる、でも私はそうは思わない。幻想の街だと思う。この街には暗黙のルールがある。たとえどん底の暮らしだとしても怒りを感じる必要はない。人はこれを”ムンバイ魂”と呼ぶ。幻想を信じるか、さもなくば狂うかだ。(トレーラーの英語字幕から翻訳)」
こうしたインタビュー音声が入り、3人の女性のひとりプラバ(カニ・クスルティ)の映像に切り替わります(だったと思う…)。
これから登場する3人も、どん底であるかどうかは別にして幻想を信じて生きていかなければとてもやっていくことは出来ない街ムンバイだということでしょう。ちなみにその一連のムンバイの街の画の中にアヌ(ディヴィヤ・プラバ)がいたそうです。
そのプラバとアヌのふたりはムンバイの病院で看護師として働いており、ふたりで住まいをシェアしています。プラバはベテラン看護師で年齢も上のようです。アヌは新人看護師にみえます。正看護師、准看護師といった資格の違いがあるとすればそんな感じで、ふたりは制服も違います。
プラバは既婚ですが、夫とは1年ほど前に見合い(親の指示でしょう…)で結婚したものの、夫はすぐにドイツへ出稼ぎに行ってしまい今では電話もないと言っています。プラバは実直な性格で生活スタイルや価値観も堅実ですので今の状態や将来を思い悩んでいるようです。
アヌの方は自分の思うように楽しく生きたいと思っているようで、それが奔放な行動に現れてプラバから小言を言われるという関係にあります。実際、アヌはヒンドゥー教徒ですが、同年代のムスリムの男の子シアーズ(リドゥ・ハールーン)と付き合っています。親からは毎日のように電話があり、見合い相手の写真を送りつけてくるので鬱陶しいと言っています。
インドでのヒンドゥー教徒とイスラム教徒の結婚自体は珍しくはないようですが、問題は親たちの価値観ということなんだろうと思います。アヌの場合も親に殺されると言っています。
そしてもうひとりの女性は病院の食堂で働くパルヴァティ(チャヤ・カダム)、50歳くらいの年齢設定かと思います。住まいは貧困層が多い地域らしく高層ビル建設のために地上げ屋に立ち退きを迫られています。夫は亡くなっており、後にプラバの紹介で弁護士に相談したときには、夫は家は買ったと言っていたが何も教えてもらっていないと言っていました。家父長制であることを暗に語っているのだと思います。
という、あくまでも女性3人を描こうとしている物語なのに、なぜか男性との関係においてしか女性を語れないという、おそらくこれがこの映画の最も重要なテーマなんだろうと思います。
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多言語の字幕ルールを守ってほしい…
プラバは医師マノージ(アジーズ・ネドゥマンガード)から好意を寄せられています。プラバは既婚であることやまわりの目を気にしつつも明確に距離を置くことを憚っているようでもあります。
ある日マノージは、渡したいものがあると小さなノートを出し、詩を書いたと言います。その夜、プラバが眠れずに起き上がって窓際でその詩を読むシーンは美しいです。開けられた窓からの風で揺れるカーテン(揺れてなかったかも…)、ムンバイの街はまだまだ喧騒の中、窓の向こうには街の明かりがいくつも灯り、列車が窓から光をこぼしながら走っていきます。
字幕ではあまり伝わりませんが美しい詩なんだろうと思います。
ところで、この映画の言語ですが、マラヤーラム語、ヒンディー語、マラーティー語が使われているらしく、このマノージもヒンディー語は難しいと言い、プラバともヒンディー語ではない言語で話しているのではないかと思います。女性3人の母国語も違っており、プラバとアヌはマラヤーラム語で話し、パルヴァティ(母国語はマラーティー語か…)とは片言のヒンディー語で会話しているそうです。またラストシーン近くでは溺れた男にはその土地の人の言葉がわからないらしく、プラバになんと言っていたんだと聞いています。
これらの字幕がまったく区別なく表記されています。最近の字幕は長い間に築き上げられてきたルールを無視しています。どういうことなんでしょうね。少なくともこの映画のように言葉がわからないと言っているのであれば同じ表記でいいんだろうかくらいの疑問は生まれると思うんですけどね。知らないんじゃなくてわかってやっているんでしょうか。
怒る声の届かない虚しさ(涙笑)…。
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プラバはアヌの恋愛に何を見ているのだろう…
とにかくこの映画は夜のシーンが多く、この詩のシーンだけではなく、ムンバイの街の明かりをイルージョンのように撮ったシーンが多用されています。
ある日、マノージがプラバに話があると言い、勤務契約がまもなく終わるけれどもムンバイに残るか地元(だと思う…)に帰るか迷っていると言います。残ったほうがいいだろうかと話を向けるマノージに、プラバは私には夫がいると言い残してその場を去ってしまいます。
アヌのようにはいかないプラバです。パヤル・カパーリヤー監督は、プラバにはアヌが自分には出来ないことをしているという嫉妬があると語っています。そうは感じませんでしたので、へー、そうなんだと思ったということです。
アヌは毎日のようにシアーズと会っています。ふたりは愛し合う場所を探しているかのようにムンバイの街をさまよいます。何シーンかあったそれらは建物の上からなんでしょう、俯瞰の引いた画で撮っていました。他のシーンからは浮いているように感じましたのでやむを得ずの許可なし撮影なのかも知れません。
ある日、アヌはシアーズから両親が結婚式への出席で留守になるから家に来るように誘います。アヌは怪しまれないようにブルカを買い、全身を覆いシアーズのもとに向かいます。シアーズから結婚式が中止になったとメールが入ります。アヌは走り抜ける列車の前でブルカを脱ぎ捨てます。既視感はあるものの印象的なシーンでした。
キービジュアルに使っているのはそのシーンです。なぜ横向きにする?(クドくってゴメン…)
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暗闇の中に光は見えているのだろうか…
パルヴァティが地上げ屋への抵抗をあきらめて地元の村に帰る決断をします。近くのホテルの厨房で働くと言っています。
パルヴァティが立ち退きを強要されるシークエンスの中に住人たちの集会でシュプレヒコールをあげるシーンがあり、映画的にはちょっと浮いた感じはしましたが、あれも現実を反映させたシーンとのことです。パルヴァティの故郷ラトナギリからは20世紀にはムンバイの綿糸工場に働きに出る人が多く集合住宅がたくさん建設され、その後工場が倒産したときに労働者たちは一定程度の土地の権利を得たんですが実行されなかったとパヤル・カパーリヤー監督は語っています。
ラトナギリはムンバイから直線距離で230kmくらい南の海辺の村です。プラバとアヌはパルヴァティをラトナギリに送るためにともにバスで向かいます。映画残りの1/3くらいはこの村でのシーンになっています。この村で起きることをあえて言えば2つです。
ひとつはアヌとシアーズです。シアーズはアヌを追っかけてやってきています。シアーズはいいところを見つけたとアヌを洞窟に誘います。洞窟でかい? というのは下衆の勘繰りで、洞窟の中の岩に施された美しい彫刻を見せるためでした。その後ふたりは浜辺の砂の上で結ばれます。
プラバはシアーズがアヌを追っかけてきて会っているところをたまたま見かけます。でも何も言いません。確かにこうしたところにプラバがアヌに嫉妬と言いますか、自分には出来ないことをできるアヌへの羨望のようなものが感じられます。
プラバとアヌがムンバイへ帰る予定の日、浜に溺れて意識のない男の人が打上げられます。プラバは心臓マッサージをし、口移し呼吸法で蘇生させます。その後、村人の家に運ばれた男の看病をするプラバはその男に夫の幻を見、会話をします。
このシーンも結構いいシーンなんですが言葉で再現することは難しく、結論を言いますと、夫は一緒にドイツへ行こうと言いますがプラバははっきりと断り(台詞は忘れた…)その場から去っていきます。
海辺のカフェ(海の家…)にパルヴァティが座っています。プラバもやってきて座ります。続いてやってきたアヌにあの子をつれて来てと言います。アヌがシアーズとともにやってきて座ります。
会話はありませんが皆それぞれに心の澱が消えたかのように見えます。パルヴァティは自分のいるべき場所はここだと思っているようであり、プラバは自分で自分に掛けてきた夫の呪縛を断ち切り、アヌはシアーズとのことをプラバが認めてくれたことで隠さなくてはいけないという思いから解放されシアーズとともに笑顔を浮かべています。
真っ暗の海辺にカフェだけは明かりが灯っています。海側からそのカフェをとらえたカメラがズームアウトしていきます。海もあたりの浜辺もまっ暗闇です。暗闇の中に4人がいるそのカフェだけは光が溢れているように見えます。その光の中でカフェの少年がひとり踊っています。ヘッドフォンをつけているのでしょう。
パヤル・カパーリヤー監督はインタビューの中で3人の女性のつながりや連帯について語っています。ラストシーンにはそうした意味があるのだと思います。
人物の撮り方では、プラバが物思いにふけったり、アヌが気だるい表情を浮かべたりといった画が多く、ムンバイの街は夜のシーンがほとんどですし、ラトナギリの浜辺はリゾート地のような雰囲気です。それぞれの画は美しく、そして情緒的です。
ですので、いい映画ではありますが、その奥に込められたパヤル・カパーリヤー監督の思いを直感的に感じることは難しい映画だと思います。