驚きのエンディングゆえのパルムドール受賞か…
昨年2024年カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作です。ショーン・ベイカー監督の映画は「タンジェリン(2015)」「フロリダ・プロジェクト真夏の魔法(2017)」「レッド・ロケット(2021)」と見てきていますが、確かに物語の運びがうまい監督です。アメリカ社会の下層で生きる人々をネタ(まさしくネタです…)にすることが多いですし、ベタな話をベタに見せないのがうまいです。

ショーン・ベイカー監督、やはりうまい…
やはりこの映画でもそのうまさは出ています。基本となる物語は女性のセックスワーカーが大金持ちの御曹司と結婚してさてどうなるかという相当にベタな話なんですが、それを中盤以降は息もつかせぬドタバタ喜劇に転換して見る者を引き込んでいきます。
で、結末は? ということになりますが、おそらくあの結末があるがゆえにパルムドール受賞となったのではないかと思われます。おそらく、多くの人がエッ!と思ったことでしょう。
私は用心棒のイゴールを演じているユーリー・ボリソフさんを「コンパートメントNo.6」で見ており、かなり評価の高い俳優さんですし、登場時点から台詞はないのにやたら戸惑っているかのようなその表情が抜かれるカットが多く、これは最後になにか絡ませる伏線だなと思いながら見ていましたので、さすがにあの結末はないにしてもどうするんだろうと楽しみではありました。
ただ、あの結末はかなり問題多いですね。
三幕構成、さすがにくどい(笑)第一幕…
何が問題かは後回しにして、あらためてこの映画を思い返してみますと、この映画、典型的な三幕構成になっていますね。
まず序盤の導入ではアニー(マイキー・マディソン)とイヴァン(マーク・エイデルシュテイン)が出会って結婚するまでを描いています。
アニーは映画.comなどでもストリップダンサーとなっていますが、客と一対一で体を接触させてセックスポーズまでする職業です。もちろんパンツは履いていますがブラジャーは取ったりしていました。それにアニーが客に触ってもいいと言っていました。個室までありましたので現実にあのような場所があるとしますとその先もあるのかも知れません。
それは置くとしても、映画はそうしたアニーを職業的矜持を持つものとして描いています。そこには多くの女性たちがいましたが誰も引け目を感じているような描き方はされていません。現実がどうかということではなく、ショーン・ベイカー監督の意図はそこにあるのではないかということです。
その後、アニーは客としてきたロシアのオリガルヒのバカ息子イヴァンと出会い、1週間専属になってくれと言われて1万5千ドルで受けます。そして、くどいくらいのセックスシーンと馬鹿騒ぎが続きます。
おそらく多くの人がこの第一幕にはうんざりしたと思います。私もこの先大丈夫か? と心配になるくらいでした。でもまあ映画づくりのうまいショーン・ベーカー監督ですのでそんなことは百も承知なんだろうと思います。
じゃあなぜわかっていながら(想像です…)それをやるかですが、多分、性的行為においての男女間(ここはとりあえず男女間として…)の上下観(主導観…)を無効化(排除…)しようとしたことと、そうした行為を職業とするセックスワーカーを下層とみなす社会的視点をはねのけるためだったんじゃないかと思います。そのためにもあの長さが必要だったということです。
それにしても長すぎますね(笑)。
とにかくイヴァンは、アメリカ人と結婚して市民権を手にすればこのままアメリカにいて馬鹿でいられると考えてアニーに結婚しようと言います。アニーはマジ? マジ? マジ? と最初は笑いながら相手にしませんが次第にそれこそマジになり、そして二人はラスベガスで結婚します。
第二幕はドタバタ喜劇へ…
そして中盤になりますとその結婚をイヴァンの両親が知ることとなり、その手下たちとの壮大なるドタバタ喜劇として展開します。
イヴァンの両親は結婚など許さないと怒り狂い、アメリカのロシアコミュニティのドンであるロシア正教会の聖職者トロス(カレン・カラグリアン)になんとかしろ!と命じます。トロスはまずはガルニク(ヴァチェ・トヴマシアン)とイゴール(ユーリー・ボリソフ)をイヴァンたちが暮らす(と言っても親のもの…)豪邸に向かわせます。
ここからは一気にドタバタ喜劇に変調します。ガルニクとイゴールがやってきたことで状況を理解したのでしょう、イヴァンが逃げます。状況を理解できないアニーは二人にFワード連発で喚き散らし、暴れまわり、それを二人が押さえつけようと部屋のものをぶち壊しながらの大騒ぎです。
そして、やがて到着したトロスとともに逃げたイヴァンを街中探し回ることになります。トロスは結婚の解消を受け入れれば1万ドル払うと条件を出し、アニーはそのお金欲しさではなく、とにかくイヴァンを見つけることしか道はないと考えて同意します。
これらの展開をいちいち書いても無意味ですのでとにかく見ていないのであれば見て笑ってきてください(笑)。
ところで、ブルックリンのブライトンビーチという地区にはロシア系アメリカ人が多く暮らしているそうです。映画でもイヴァンを探し回るシーンではロシア系と思われる人物が多かったように思います。
この第二幕で重要なことは、トロスがアニーのことを娼婦という言葉で侮辱しまくることで、それがアニーの怒りを買うという点です。アニーがイヴァンの愛を信じていることはありえませんので、この後のアニーの言葉や行動はそうした侮辱に対して自らのプライドを守るための行為ということになります。
そしてもう一つ重要なことは、すでに少し書きましたイゴールの存在です。用心棒ですので指示されたことを忠実に実行し、そこに感情を交えないという人物像になっています。ただその目には次第にアニーへの同情を宿していきます。
第三幕、解決編…
第三幕、解決編です。ああ、その前にイヴァンは泥酔状態で見つかります。ここで解決してしまうわけにもいかないということでしょう(笑)、話しかけてもぐでんぐでんで埒が明きません。
そしてイヴァンの両親がプラベートジェットでやってきます。どうやら母親ガリーナが実権を持っているようです。父親ニコライはヘラヘラとまるで他人事のようです。これらも意図的な設定だと思います。
アニーはガリーナに私たちは愛し合って結婚したと訴えます。しかし、ガリーナの態度はアニーを鼻にも掛けない振る舞いで完全に見下しています。イヴァンの一言に頼るしかないアニーです。しかしイヴァンが母親に背けるわけもなく冷たくアニーを突き放します。
完全にプライドを打ち砕かれるアニーです。そして最後の抵抗を示します。弁護士をつけるまで婚姻解消には応じない、結婚は有効だから財産の半分は私のものだと主張します。ガリーナは鼻で笑いながらあなたの人生は無茶苦茶なると脅します。
アニーに残された手はなく、完全に打ちのめされます。二人はラスベガスで結婚しているために全員ラスベガスへ飛びます。そしてアニーは婚姻解消の書類にサインします。
突然イゴールが「自分は部外者だが、イヴァンはアニーに謝罪すべきだ」と発言します。
キター! と思ったのですが、ここでは何も起きませんでした(笑)。
結局この第三幕、エンディングを除いてですが、このパートでの解決というのは、第一幕ではセックスワーカーであるアニーに対する社会的な見下し視線を排除し、第二幕ではドタバタ喜劇で目くらましつつアニーのプライドを際立たせ、そしてこの第三幕ではアニーを完全に打ちのめすことと裏腹に精神的に下層なのはどっちだと見るものに感じさせるようにできているということになります。
そのエンディングをどう理解する…
で、エンディングです。
アニーは明日まではあの豪邸に留まっていいと言われ(ちょっと変ですけどね…)ニューヨークに戻ります。監視役としてイゴールが付き添っています。アニーは苛立ちがおさまらないのでしょう、イゴールにあなたはあのときレイプしようとしたと八つ当たり続けています。
翌朝、イゴールが車(家も車もお婆ちゃんのって言っていましたが、何を意図しているのでしょう…)でアニーを住まいまで送ります。イゴールは降りようとしたアニーにおいと呼びかけ、握った手のひらをぱっと開けます。そこにはイヴァンがアニーに贈り、ドタバタ騒ぎの際にアニーから取り上げたダイヤの指輪があります。
アニーは指輪を受け取ります。そして突然ジャケットを脱ぎ、イゴールにまたがり、イゴールが座るリクライニングシートを倒し、イゴールの股間をまさぐり、自ら挿入して、しかしイゴールがキスしようとするのを拒み(ということだと思う…)、突然慟哭し始め、イゴールはそんなアニーを強く抱きしめて映画は終わります。
かなり意表をついたエンディングです。
結局、アニーはプライドを打ち砕かれて、それまでこらえてきた悔しさの堰が切れたということではありますが、それにしてもなぜセックス行為に及ぶのでしょう? これがプリティ・ウーマン時代であれば、突如涙を流すにしてもイゴールがアニーを強く抱きしめることで終わっていると思います。
ショーン・ベイカー監督がセックス自体を特別視していないということも考えられ、その線でいけばあれはお礼? (まさか…)、あるいは孤独感からくる人恋しさ? あるいは単純に最も効果的な映画的処理? と、とにかくよくわからないエンディングです。それにアニーの行為はレイプです。
それに気になることがもうひとつ、ガリーナ対アニーの対決構図を持ち込みつつ、その時のニコライにはまるで他人事のような余裕を持たせて笑わせているのです。女性蔑視じゃなければいいのですが…。
やはりこうしたある種社会の下層で生きる人たちへの寄り添う視点をみせつつもどこかネタ的な扱いをしているのではないかと思えてきます。
プリティ・ウーマンからおよそ35年経ちますのでジェンダー観もかなり変化してきています。この映画は一面的には決して女性は男性の従属的な存在ではないことを示してはいますが、しかしながらそれを示す手段が性的行為を女性主導で行うことであったり、それはそれで評価されるものではあるとしても、性的行為でジェンダーを語る(そんなつもりはないにしても…)こと自体がすでに男性価値観そのものだと気付くべきだと思います。
ちょっと穿った見方過ぎるのような気もしますが、ショーン・ベイカー監督4作目を見てのちょっと気になる点ではあります。