コンパートメントNo.6

ネタバレレビュー・あらすじ・感想・評価

オリ・マキの人生で最も幸せな日」のユホ・クオスマネン監督の長編第2作です。その2016年の長編デビュー作はカンヌ国際映画祭の「ある視点」部門で作品賞を受賞しています。そして、この「コンパートメントNo.6」は2021年に同じくカンヌのコンペティション部門でグランプリ受賞です。

滲み出る情感…

何ごともはっきりさせない(笑)のは前作の「オリ・マキの人生で最も幸せな日」と同じですが、違うのは、それだからこそよくわかる映画になっていることです。映画としての動きはたくさんあり、なにか起きそうな予感をさせつつ進むんですが、何も起きません。その語られない情感がにじみ出てくる映画です。

ユホ・クオスマネン監督はフィンランドの監督ですが、この映画の舞台はロシアです。2023年の今ではロシアと聞けばどうしてもウクライナでの戦争が浮かんでしまいますが、この映画が撮られたのは2021年以前です。ロケ地もIMDbにはサンクトペテルブルクだけクレジットされていますので他はフィンランド国内かも知れません(想像です)。

原作があります。フィンランドの作家ロサ・リクソムさんの2011年発表の同名タイトルの小説「Hytti nro 6」です。

映画は原作の設定とはちょっと違うようです。フィンランドの学生が列車の個室でロシア人の男性と一緒になるのは同じですが、原作の男性の年齢は45歳で、行き先もモンゴルのウランバートルのようです。時代の設定もまだソ連邦顕在の1980年代です。

映画のほうの時代設定は1990年代のかなり後半、2000年に近いと思われます。ロシア人のリョーハが映画タイタニックの話をしていますので1998年以前はあり得ないです。ロシアで「タイタニック」が公開されたのは1998年2月20日です。

ただ、映画にはどことなくソ連邦時代の社会を思わせる衰退感が感じられます。ソ連邦崩壊が1991年、その後エリツィン政権となり汚職がはびこったというその末期ですからまだまだソ連邦時代と変わらなかったのかも知れません。

それはともかく、前作の「オリ・マキの人生で最も幸せな日」はフィンランドの話ですが、やはり現代ものではなく1962年の話でした。この映画の時代設定を考えますと、クオスマネン監督には過去というものへのなにがしかの思いがあるようにも感じられます。それがメランコリックさとして現れてくるのかもしれません。ただ、ノスタルジックとはちょっと違った印象です。

この映画でも過去を知ることは現在を知ることになるといった台詞がありましたし、主人公のラウラは考古学を学んでおり、今から3000年から5000年前のカノゼロのペトログリフ(The Kanozero Petroglyphs)を見に行くことが物語の軸となっています。ペトログリフは古代の人々が岩に掘った彫刻のことで岩面彫刻などと訳されているとのことです。

使われる音楽も懐メロ系で、冒頭のパーティーに流れるのはロキシー・ミュージックの「Love Is The Drug(恋はドラッグ)」、そしてテーマ曲のように使われる曲はデザイアレスの「Voyage Voyage(ヴォヤージ・ヴォヤージ)」です。

旅は始まりは最悪…

ラウラ(セイディ・ハーラ)はロシア語を学ぶためにフィンランドからモスクワに留学しています。その大学の教授や学生たちのパーティーから始まります。

ラウラがいわゆるインテリという階層に属していることを見せています。ただ、ラウラにはあまり居心地はよくないようです。おそらくベースとしては異国であること(つまりは、見下されている感…)やパーティーのスノッブさが合わないことがあるのでしょうが、一番はこれから旅立つムルマンスクへの旅に恋人関係にある同性の教授イリーナが行けなくなったことと思われます。そこには映画が進むにつれて明らかになる(はっきりするわけではない…)イリーナの気持ちが自分から離れつつあるのではないかという不安もあるのでしょう。

そして、ラウラはひとり行程2,000kmにおよぶ極寒の地ムルマンスクにに向かう列車に乗り込みます。列車は途中幾度も停車し2、3日を要する旅です。

客室は4人部屋の2等車、同室になるのは若いロシア人のリョーハ(ユーリー・ボリソフ)ひとりです。他に同室はいません。リョーハはウォッカを飲みながら絡むように話しかけてきます。列車は初めてか? 何をしに行く? 何をやっている? ラウラが適当にあしらっていますと、あげくの果てに、仕事は売春か? です。

考えるだけでもゾッとする旅です。映像は狭い客室内の閉塞感や窮屈さを演出するように撮られていますので、ラウラの感じる不安感や圧迫感が見るものにも伝わってきます。

ラウラは係員に席を変えてほしいと交渉しますが、我慢してと聞き入れられません。買収しようお金を出しますが、係員は何も言わずに横を向いてしまいます。

何を見せようとしたのかは難しいシーンですが、この映画全体がある種変わりつつあるロシア(1990年代後半の…)というものが意識されているように思われますのでこのシーンもそのひとつではないかと思います。

とにかく、この最悪の出だしの旅がムルマンスクに着くまでにいくつかの出来事をきっかけにして変わっていくという列車旅のロードムービーです。

純情、友情、愛情、そして旅情…

リョーハはムルマンスクの炭鉱へ働きに行く労働者です。

この映画にはインテリ(知識階級)と労働者という社会的存在として人を見る目線があります。ラウラは知識階級に属しているというわけではありませんが少なくとも知識に価値を見出す人物です。冒頭のパーティーシーンのラウラの居心地の悪さの表現からはそうしたラウラの立ち位置が感じられます。知識そのものへの尊敬の念は抱いても、知識を人に誇ったり、知識を持って人を見下したりすることへの抵抗感を持っている人物です。

とは言っても、最初に乗り合わせた段階でラウラはリョーハを見下し軽蔑しているでしょう。まあ、あの絡み方なら当然だとは思いますし、そのように映画はつくられています。

リョーハはなぜいきなりあんな絡み方をしたのか、その後のリョーハの立ち振舞や行動から考えれば、おそらく緊張感でしょう。時代を考えますと、一般論としてですが、炭鉱へ働きに行く若者なら2等車ではなく3等車に乗るのではないかと思います。映画ですからそもそも2等車に乗らなきゃ映画にならないわけですのでどうこう理由はないにしても、個室で一対一、ましてや相手が女性、雰囲気としては自分とは階層が違うと感じればああした態度を取る男性は少なくないと思われ、そうした感情が計算されて映画はつくられていると思います。ある種の純情さが裏目に出るというやつです。リョーハが欲しかったのはあくまでも親しさであり、リョーハの日常ではあのやり方が相手と親しくなるための方法だったのかも知れません。

リョーハを演じるユーリー・ボリソフさんのこのあたりの演技が無茶苦茶いいんです。1992年生まれですから30歳くらいの俳優さんです。「インフル病みのペトロフ家」に出ていたようです。

ラウラのリョーハを見る目が少し変わるきっかけは、サンクトペテルブルクでの停車中(一晩の…)にリョーハの知り合い(あれは誰?)の高齢の女性を訪ね、その女性と意気投合したのか酔いつぶれて翌日あわてて列車に戻るという出来事です。

同時に、イリーナとの別れの予感も進行していきます。ラウラはサンクトペテルブルクでリョーハと行動をともにする前に、モスクワへ帰るつもりで列車を降りてイリーナに電話をしています。しかし、イリーナの態度は自分がいないことで寂しがっている様子もなく、親しい誰かと一緒にいるようです。イリーナに、もう帰ってくるの? と聞かれ、そのつもりだったのに即座に打ち消しています。

次にラウラが変わる大きな出来事はフィンランド人の旅行者です。バックパッカーの男が係員ともめています。おそらく2等車に入ろうとして言葉がわからないふりをしているのでしょう。ラウラは自分の客室に入れます。係員も見てみぬふりをしていました。

リョーハがすねます(笑)。わかりやすいですね。せっかく親しくなったのに邪魔者が入ったということです。それにそのバックパッカーもギターの弾き語りをするような人物です。リョーハの気持ちがよくわかります。

途中駅でそのバックパッカーが降りていきます。ラウラのビデオカメラがありません。ラウラはモスクワでの生活やイリーナとのこともビデオに収めています。車中でもリョーハがいないときに、ここにあなたがいればなどとイレーナへのビデオレターのような映像を撮っています。それがバックパッカーに盗まれたのです

モスクワでの楽しい思い出がつまっていたのにと嘆き悲しむラウラです。うまいですね。ラウラの変化が婉曲的に表現されています。ラウラは自分で過去を捨てたわけではありません。このうまさは次のシーンでさらに生きてきます。

リョーハがラウラを食堂車に誘います。パーティーをしようだったか(そんなわけはないか…)、飲みに行こうだったか、とにかく、ラウラはドレス、リョーハは小ぎれいなシャツに着替えて食堂車に向かいます。ふたりは楽しそうです。完全に友情がきずけた様子でうまくいきそうです。が…

ラウラがシャンパンを注文します。リョーハは一口飲み、まずいと言います。シャンパンを飲んだことがないのです。リョーハはウォッカを注文します。ラウラがノートの1ページを破りリョーハにあげると言います。リョーハの眠っている姿の似顔絵が書かれています。ラウラはノートを渡し、私を書いてと言います。リョーハは書けないと言いながらも腕で隠して一生懸命書こうとします。リョーハがキレます。書きかけのページを握りしめたまま席を立って行ってしまいます。

説明の必要はないと思いますが、ラウラにはリョーハが自分をどう見ているかがわかっていないということです。

客室に戻ったラウラは立ちすくむリョーハを抱きしめます。そして愛おしそうに幾度もキスをします。しかし、リョーハがそれに応えることはありません。このシーンのリョーハのキスの応え方もうまいです。混乱で自分がどうしていいのかまるでわかっていないキスです。リョーハはラウラを押しのけ客室から出ていってしまいます。

ハイスタ・ヴィットゥ

ムルマンスクに到着です。リョーハの姿がありません。客室に戻ることなくどこかで寝てそのまま降りてしまったのでしょう。

ラウラはホテルに入り、カノゼロのペトログリフへ行く方法を尋ねますが、この季節は行けないと言われ、まったく手立てが見つかりません。ラウラはタクシーを走らせリョーハから聞いていた炭鉱の採掘場所に向かいます。ラウラが男に書き置きを渡すロングのカットだけですので状況はわかりませんが、おそらくリョーハは坑道に入っているのでしょう。

翌日の早朝(でしょう…)電話が鳴り、レセプションから客が来ていると告げられます。リョーハがカノゼロのペトログリフへ行くぞと運転手と車を手配して待っています。車を走らせ、船に乗り(島なので…)、ペトログリフに向かいます。

このシーンはあっけなかったですね。ラウルが岩盤を眺めながらペトログリフを見ているシーンだけで、本当にそこがそうなのかはわかりません。

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Dmitralex, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

これがカノゼロのペトログリフだそうです。それにカノゼロ湖の位置を GoogleMap でみますとムルマンスクまで行かなくてもいいような場所です。ムルマンスクからじゃないと行けない理由があるのか、あるいはムルマンスクは世界で最北端にある鉄道駅ということですのでそうしたところからの映画的処理なんでしょうか。旅情です。

そして、ラストシーン、これが無茶苦茶シャレています。

カノゼロから車で戻ります。眠っていたラウラが目覚めますと、そこは炭鉱の採掘場です。ラウラが書き置きを残したその場所です。ここも車から見た目のロングのカットだけです。リョーハがその場にいた男たちに何かを話して入っていきます。ラウラが車のドアに手を掛け出ようかと迷います。運転手がホテルへ向かっていいかと尋ねます。ラウラはうなずきます。運転手がリョーハからだと言い、1枚のたたまれた紙を渡します。ラウラが開きますと、そこには食堂車で書きかけたラウラの似顔絵と、そして「ハイスタ・ヴィットゥ」と大きな文字で書かれているのです。

それは、リョーハが「フィンランド語で愛しているは何と言うんだ」と絡んできたときにラウラが教えた言葉なのです。

「ハイスタ・ヴィットゥ(Haista vittu)」本当は「Fuck you」という意味なのです。

見るものの心に物語が生まれる…

ラウラがモスクワに戻りどう変わっていくのかはわかりませんが、心の傷もなくイリーナと別れることが出来るでしょうし、おそらく生活環境も変わっていくことになるのでしょう。

また、ふたりが再び会うことはないでしょうし、リョーハの労働者としての日常は変わることなく続いていくのだと思います。

映画から何を感じるかは人それぞれですが、私はこの映画から語られない、描かれない人生を感じます。特別何がこうしてこうなったという物語を語っているわけではありませんが、見ている自分の中に物語が生まれます。そして、これこそが映画だなあと思います。

ラウラを演じているセイディ・ハーラさんは1984年生まれの30代後半の俳優さんです。映画の設定もそれ相応の年齢設定だと思います。映画はそうした大人の女性と若干若く大人ではあっても不器用で純情さを残した青年の出会いを描いています。女性の物語でもあり、また男性の物語でもあります。

前作の「オリ・マキの人生で最も幸せな日」ではよくわかりませんでしたが、この映画を見て考え合わせますと、ユホ・クオスマネン監督が見ているのは純情で不器用な男の側かも知れません。

いずれにしても、次回作も楽しみなユホ・クオスマネン監督です。