ナチスに略奪された絵が見つかった、絵は誰の手に?とのミステリーにはならず…
実話にインスパイアされた物語とありましたので少し調べてみましたらガーディアンが2006年4月22日付で記事にしていました。絵が発見された直後ですね。
「Found: Schiele masterpiece that was looted by Nazis then lost for 68 years」
「ナチスに略奪され68年間行方知れずだったシーレの傑作が見つかった」
発見の経緯自体は事実に近い…
ガーディアンの記事です。
鑑定を依頼されたのはクリスティーズの鑑定家とあります。映画ではそれをもじってスコッティーズ(サザビーズの S も入っているか…)になっています。
記事はオークションが行われる前に書かれていますので落札金額などの話はなく、絵が描かれた経緯や戦後に本来の所有者カール・グリュンヴァルト(1964年没)が探していたといった内容になっています。
落札金額については、ウィキペディアのこの映画の項目に絵の画像とともに記載があります。
Egon Schiele, Public domain, via Wikimedia Commons
2006年に 1,720万ユーロ(2,170万ドル)で落札されたそうです。日本円ですと当時のレートで約25億円です。ナチスによる略奪品ですので発見者に所有権はありません。ただ、映画にもありましたように発見者である「une maison achetée en viager 終身年金で購入した家(ウィキペディア)」の所有者はその10%を手にしたそうです。
ガーディアンの記事にはゴッホのひまわりを参照して(オマージュ…)描かれたとありますが、花びらも落ちて枯れた様子が描かれていますので即座にひまわりだと認識するのも難しいくらいです。ウィキペディアには「Les Tournesols fanés ou Soleil d’automne 枯れたひまわり、または秋の太陽」とタイトルがついています。映画の中ではナチスが退廃の絵だと価値を認めなかったと言っていました。
映画はこの絵をめぐる物語ではあるのですが、英題の「Auction」や原題の「Le Tableau volé(盗まれた絵)」から想像されるサスペンスやミステリー系のドラマというよりも、その絵に関係することで顕になってくる人間たちの思惑を描いているある種群像劇風の映画です。
本題の前の長〜い前ぶり…
その絵が発見されるまでに割と長く時間がとられています。
パリのオークション会社スコッティーズのアンドレ(アレックス・ルッツ)と研修期間中のオロール(ルイーズ・シュビヨット)が資産家の女性の家に絵の鑑定に来ています。ここではその女性の横柄さとあからさまな人種差別(黒人蔑視…)を見せています。隣に黒人の使用人がいますがその存在すら無視するかのようです。
そしてしばらくの間描かれるのはアンドレとオロールの刺々しい会話です。日本の職場であれですとどちらかが心を病んでしまうのではないかというほどに遠慮のない言葉が投げつけられます。
それにオロールは平気で嘘をつきます。意図的に見せているわけですから、しばらくはオロールが主人公かと思うような描き方です。おそらくラスト近くのどんでん返し的な展開への伏線なんでしょうがちょっとやり過ぎ感は強いです。
オロールがオークション会場である男に目星をつけて古書のオークションの値を釣り上げることをします。実はその男は自分の実の父親なのです。オロールの父親(母の夫…)は古書(だったか…)を扱う仕事をしており、その男を雇っていたのですが裏切られて没落しています。またその男はオロールの母親と関係を持ちオロールが生まれたというのです。父親はそのことを知りません。多分オロールは母親から打ち明けられたということなんでしょう。
こんなややこしい話が本題の前に描かれている映画です。
過剰すぎる人物配置と人物設定…
アンドレのもとに地方の弁護士シュザンヌ(ノラ・ハムザウィ)から絵の鑑定の依頼が来ます。送られてきた写真はエゴン・シーレの失われた「Les Tournesols fanés ou Soleil d’automne 枯れたひまわり、または秋の太陽」です。アンドレは贋作だと鼻にもかけない様子です。
このアンドレの人物像も鼻持ちならない奴との意図があるのではないかと思いますが、演じているアレックス・ルッツさんのキャラクターからなのか、あまりそのようには見えません。
オロールとのやり取りではパワハラ気味のところもありますし、会社の役員会議では上司を見下したり、絵の発見者が労働者(字幕…)だと馬鹿にしたり、フランス内の地域(パリから見て地方を…)を見下したりするところがあります。所有していいる車や時計などでもやや成金的な人物像にしてあるんだと思います。後にシュザンヌからだった思いますが、自分と同じ出身(多分地方出身ということ…)の匂いがするなんて言われていました。
絵の鑑定には元妻のベルティナ(レア・ドリュッケール)が同行します。ベルティナも同業者です。このベルティナだけは好感の持てる人物に描かれています。ふたりは離婚後もまったくこだわりなく信頼関係を保っています。
絵の発見者にもあれこれ細かいドラマが持ち込まれています。こうした過剰さが映画としてマイナスになっています。シンプルさに欠け、映画の方向性が曖昧になっています。ここまで作り込むのであればはっきりとしたサスペンスかミステリーにすべきだということです。
現所有者の家族構成(母子家庭…)まできちんと描かれ、映画的にその代表者となるその家の息子マルタン(アルカディ・ラデフ)の友人2人を出して仲良くゲームをして遊ぶシーンまで見せ、そのうちのひとりにコンビニで絵画カタログのような冊子を買わせたり、絵が本物と鑑定されて高く売れることがわかりますと別のひとりが絵に執着し出して、あわや3人の友情関係が壊れそうになるみたいなところまで描いています。
なにか起きそうに見せていますが、結局何も起きずにいつの間にやら絵はスコッティーズのもとに移されていました。もともと略奪品ですのでマルタンに所有権はありませんが、マルタンは本来の所有者に返せばいいと何の見返りも求めない態度を示します。このマルタンの無欲な誠実さはこの映画が見せたかったことのひとつだと思います。ラストシーンをこのマルタンで終えています。
まだまだ人間模様は続きます。簡潔に行きます(笑)。
本来の所有者も登場します。探していたにもかかわらず、なぜ自ら所有せずにオークションにかける(事実もそう…)のかとは思いますが、とにかく売却益に関してはアンドレの求めに応じてマルタンを遺産相続者に加える(ちょっと意味がわからない…)と言います。
アンドレはオークションの宣伝のためにエゴン・シーレ研究の大御所(ということだと思う…)にその絵を見せます。しかし、大御所は保管状態が悪いと酷評します。
後日、本来の所有者が買い手が見つかったのでオークションをやめると言い出します。アンドレは落胆します。オークション会社ですので会社の利益もありますし、美術的価値の高いものを扱えば自分のステータスになりますし、何よりも自分のやりがいもあるでしょう。
ここでオロールの登場です。実はオロールはアンドレとの対立でオークション会社を辞めています。そのオロールからアンドレに連絡が入ります。多少の言い合いがありアンドレが折れて話を聞きますと、オロールは、本来の所有者がオークションにかけずに直接売買することにしたのは自分の実の父親が例の大御所を使い絵の評判を落とし本来の所有者に話を持ち掛けたからだと言います。
結局、絵はオークションにかけられることになり、会場ではアンドレが意気揚々とその場を仕切っています。値をつけるのは会場の人々ではなく、横にずらりと並んで依頼主から電話で指示を受ける代理人ばかりです。わざとそれを見せているのでしょう。そして2,500万(ユーロ? ドル? ほぼ1:1…)で落札されます。
アンドレはオークション会社のCEOから会長職(字幕…)への昇進を告げられます。役員会議の場でアンドレが見下していた上司は解雇です。ベルティナがやってきます。おめでとうと言ったかどうかは記憶がありませんが、アンドレは会社を辞めると言います。CEOの見下し感が嫌だ、いずれ自分も解雇されると言い、ベルティナに組まないかと言います。
ところで書いていませんが、ベルティナとシュザンヌは愛し合う関係になっており、また、アンドレとオロールもそうした関係になっているようにも見えました。
そしてラストシーンでは、本来の所有者一族やオークションの関係者でしょうか、パーティーの席でマルタンが拍手で迎えられていました。
むちゃくちゃ嫌味な拍手でした。
人物へのこだわりは脚本家の宿命か…
ということで、映画としては面白かったんですが、焦点が絞りきれていなく、何の映画だったかぼんやりしている印象です。
途中にも書いているように映画のつくりはミステリーっぽいんですが、あまりそこにはこだわらずに登場人物の人物像へのこだわりのほうが強く感じます。オロールのひねくれ加減とか、マルタンの誠実さとかのことですが、そこにこだわることで映画の軸がわからなくなっています。脚本家の習性なんでしょうか。それはそれでいいことだと思いますが、映画としてのバランスの問題じゃないかと思います。
パスカル・ボニゼール監督は脚本が主であって監督作は2作めみたいです。1946年生まれの78歳です。
見ている映画では「マルクス・エンゲルス」と「夜明けの祈り」の脚本にクレジットされています。