バクラウ 地図から消された村

アナーキーな村、バクラウ、アナーキーな映画、バクラウ

昨年(2020年)末の劇場公開時に見ているのですが、書きかけでそのままになっていた映画です。かなり記憶も薄れてしまいましたのでDVDを見てみました。

前半は散漫な感じでDVDじゃ集中できませんが、やはり後半はぐっと惹きつけられます。次第に映画の向かっているところが見えてくるからでしょう。

2019年のカンヌで「レ・ミゼラブル」とともに審査員賞を受賞しています。この二作、かたやリアリズムっぽいつくり、かたやあれこれメタファーが感じられるつくりと随分雰囲気は違いますがどこか共通点が感じられる映画です。

なお、その年のパルムドールは「パラサイト 半地下の家族」で、一見この映画にも共通点があるようにも見えますが、戦わなくても越えられる(と思ってしまう)「格差」と命をかけて戦わなければ越えられない「階級」を描いている点において決定的に異なるものです。

バクラウ 地図から消された村

バクラウ 地図から消された村 / 監督:クレベール・メンドンサ・フィリオ、ジュリアノ・ドネルス

黒澤、マカロニウェスタン、ジョン・カーペンター 

書きかけのままになっていたのは、この映画が様々なジャンル映画からの参照であったり、過去の映画や映画監督へのオマージュが強く感じられ、それらを調べたりしているうちに気持ちが他の映画の方へいってしまったということです(笑)。

さすがに公開から半年も経っていますので、それらのこともググればたくさんヒットします。

初見の時は、やはり前半はあれこれ焦点が定まらない映画だなあと感じていたんですが、中程から、ん? 悪党と村人の対決か? と気づき、ならば「七人の侍」か? とも思ったのですが、助っ人(用心棒)に焦点が当てられているわけではありませんのでこれはリアル黒澤ではなく、たとえそう感じられるにしてもマカロニウェスタン経由の黒澤なんだと思います。

あらためてDVDで見たところでは、そうした西部劇的な映画の構成よりも、むしろバクラウという村のアナーキーさにとても興味を惹かれます。

ジョン・カーペンターさんへのオマージュですが、これはもう監督自身が語っているとおりで、映画の中に登場する「ジョン・カーペンター記念小学校」やカーペンターさんのオリジナル曲「Night」を使っていることで明らかでしょう。

SF、ホラー、ゾンビ、西部劇、スプラッター

いわゆるジャンル映画っぽいシーンがごった煮風に入っている感じです。

オープニングはいきなり、何だ、これは?と思うようなノイズっぽい音楽で始まり、突然ラテン系のバラードに変わります。ガル・コスタさんが歌う「ナォン・イデンチフィカード」という曲で、曲名は未確認という意味のようです。曲の最初についているノイズも曲の一部らしくUFOの飛来がイメージされているのでしょう。ラブソングではありますが、歌詞には未確認飛行物体といった言葉も入っています。

映像は、SFのオープニングのような宇宙からの地球の映像で始まり、ブラジルのある地域にフォーカスし、そして荒野(ジャングル?)の一本道を走る給水車を捉えた俯瞰の画になります。 

このオープニングシーンもジョン・カーペンター監督の「遊星からの物体X」へのオマージュなのかも知れません。 

そして道路には散乱する棺桶…、ホラーか、ゾンビ映画かと思わせるつくりです。

給水車を運転する男とバクラウへ戻るために車に同乗したテレサの会話により、これから始まる物語の大枠が説明されます。

  • バクラウという村は権力者(はっきりしない)により封鎖されている
  • 水も絶たれているので迂回して給水車で運んでいる
  • 4ヶ月前、ルンガが封鎖を破ろうと襲撃したが封鎖は続いている
  • ルンガは指名手配されどこかに隠れている
  • ルンガの居場所を知っているのはパコッチだけです

この後しばらくはバクラウという村がどんなところかが語られ、なかなか抑圧者側の姿がみえません。ここはしばらく我慢していますと(笑)、やがて映画の基本構成が悪党に包囲された村というマカロニウェスタン系の西部劇のスタイルであることがわかってきます。

で、やはりこの映画が特異なのは、バクラウという村はひとり指導者がいてといった西欧的価値観の集団ではなくアナーキーな集団だということです。描き方がかなり雑然としていますが、それ自体もアナーキーだということでしょう(笑)。

そして、映画は次第にスプラッターシーンが増えていきます。

トニー・ジュニア、殺人集団、ドローン、イヤホン

バクラウを封鎖している抑圧者側の姿が少しずつ明らかになってきます。まず市長を目指す男トニー・ジュニア、この人物がチープなのは抑圧者の単なる手先だからでしょう。

バイクの二人組、そしてその二人を含む殺人集団が姿を現します。

この殺人集団はあからさまな差別的階層で構成されています。

  • 英語が公式言語として使われる
  • バイクの二人はブラジル南部富裕層の出身
  • 他のメンバーは白人であり二人をドローンで監視する
  • 白人たちにイヤホンで指示を出す見えない存在

この映画は抑圧、被抑圧という社会構造を描いているわけですが、さらに言えば、その抑圧側にもさらに階層があり、それはヨーロッパ(白人)帝国主義が非白人地域を植民地化するために用いた被抑圧者を分断して支配していくという巧妙な手口をも意識されているんだと思います。

その意味ではバクラウという村は最下層の集団に位置づけられ、この映画はそこに軸足を置いているということになります。

バクラウ、戦闘モードへ 

村外れの農場が殺人集団に襲われ、また村人2人も殺害されます。ここらあたりから映画は一気に面白くなります。

パコッチが殺された村人を車に乗せてルンガのもとに応援を求めに行くシーンにかかる曲「Réquiem para Matraga(マトラガのレクイエム)」、レクイエムなんですが、Google翻訳で歌詞を見ますと戦闘モードに入る曲です。

ルンガのアジトが干上がったダムというのも暗示的です。

ルンガをやっているシルベロ・ペレイラさん、存在感ありますね。

ただ、あまり出演シーンはありません。こういうところでもこの映画がマカロニウェスタンを参照しているにしても悪党対用心棒的なものとは一線を画しているということの現れだと思います。

ルンガが穴を掘ると言って皆で穴を掘り始めます。てっきり壕のようなものかと思いましたら違っていました。ラストでわかります。

殺人集団の後ろにはアメリカ的なるものが…

殺人集団によってバクラウの子どもが殺され、脱出しようとした夫婦も殺されます。

殺人集団のアジトでは子どもを殺したことから仲間内で言い争いになり、興奮したひとりがボスであるマイケル(ウド・キア)をナチ呼ばわりします。マイケルは37歳だというその男に、自分は40年ドイツに帰っていない、お前以上にアメリカ人だとその男に向けて発砲します(防弾チョッキをつけている)。

この際にもマイケルはイヤホンで何者かから指示を受けています。この殺人集団には、この戦いに勝ってなにかを得るんだといった目的意識というものがありません。命令に従ってただ人を殺すだけです。その後ろには姿の見えない何者かがいるということを見せているんだと思います。

それが何者かを映画は語っていませんが、現在で言えばアメリカ、遡れば(ブラジルなので)ポルトガル、そしてその背景にある西欧的な帝国主義的価値観なんだろうと思います。

現在的な意味で言えば、ドローン、スマートフォン、携帯翻訳機、ネットワーク・インフラ、世界規模で見ればすべて先進国と言われる支配者層の国から持ち込まれ、結果として支配のためのツールになり得るものです。

アナーキーな映画、バクラウ

そして戦いは始まります。ただし、圧倒的な戦闘シーンがあるわけではありません。殺害シーンは首を切り落としたりとまさしくスプラッターなのに全体の雰囲気はとてものどかです。とにかくシュールです。

それに、どういう意図なのかは図りかねますが、この戦闘ではボスのマイケルが不思議な行動をとります。

  • 単独行動だと言ってひとりですたすたと行ってしまう
  • 狙撃銃で仲間を狙撃する
  • 突然拳銃を取り出し口にくわえ自殺しようとする

ラストのマイケルとトニー・ジュニアのやり取りもそうですが、何をやろうとしたのか全くわかりません。

結局マイケルは村人に捕まります。他の者たちは全員斬首され広場で晒し首になります。

トニー・ジュニアがやってきます。捕らえられたマイケルが、トニー、金を払え! と叫びます。

さすがにこれは意味不明です(笑)。強面で通してきたマイケルなのにどうしたんでしょう(笑)? まさか、殺人集団の黒幕がトニー・ジュニアということでまとめようとしたということはないとは思いますが…って、どう見てもそう見えてしまいます。

最後までシュールな映画でした。

トニーは裸にされロバに乗せられ荒野に放たれます。マイケルはルンガが掘った穴の牢獄に放り込まれ、上から土を被せられて終わります。

そして再び「Réquiem para Matraga(マトラガのレクイエム)」が流れます。

そしてアナーキーな村、バクラウ

バクラウの村には「キロンボ」という植民地時代に逃亡奴隷によってつくられた村(集団)が参照されているとのことです。

具体的にその集団を模しているということではないと思いますが、いずれにしても常に外部から緊張感を強いられる最下層の集団という点では、キロンボであるかどうかとは関係なく最もベーシックな集団であることは間違いありません。

人間、敵対するものがなければ群れたりなどしません。逆にいえば群れるから敵対するものが生まれるとも言えます。

いずれにしても、この映画は抑圧、被抑圧という構造を描いているわけですが、不思議なことにそのどちらも極めてアナーキーな集団です。殺人集団は一見ヒエラルキーがあるように描かれますが、なぜか最後は烏合の衆になってしまいます。その長であったマイケルが自殺を試みたりします。

もう一方のバクラウの集団は見るからにアナーキーです。リーダーはいません。殺し屋パコッチや用心棒的ルンガという前衛的な人物はいますがリーダーになることはありません。皆が同じように武器を持ち、同じように戦います。

バクラウには階層も階級も差別もなさそうです。移動型セックスワーカーがやってきます。家族という単位の集団ではありません。夫婦と子どもという描き方はされていません。子どもたちは学校で同じように学んでいます。

意図はわかりませんが、常時麻薬を使用しています。

深読みすれば、麻薬でも使用しなければアナーキーな集団など存在し得ないということかも知れません。