神はいない。そう考えるのが人間の義務であり、その時初めて自分が何者であるかに責任が持てる。
1993年に製作され、その年のヴェネツィア国際映画祭で審査員特別賞を受賞したオーストラリア映画です。映画.com によれば、当時日本では劇場公開はされなかったものの「アブノーマル」というタイトルで VHS が発売されたそうです。日本では今回が劇場初公開です。
始まりは背徳性を強く感じさせ…
知的障害のある(多分…)バビーは、35年間母親と二人だけで暮しています。住まいは小さな窓があるだけの薄暗い粗末なもので、ビルの中の一室の印象です。始終、外の機械音のような騒音が聞こえてきます。
後にバビーが外に出たときのシーンでは工場街のような印象でした。オーストラリアのアデレードで撮られています。
母親は外には有毒ガスに満ちているから出られないと教え込んでいます。自分はなにか仕事をしているのでしょう、ガスマスクをし、ドアに施錠して出ていきます。その際バビーには椅子に座って絶対に動くなと言いつけていきます。バビーは母親が帰るまで座ったままじっと待っています。ときに漏らしたりします。
監禁状態のバビーです。
ゴキブリや猫と遊ぶ毎日です。母親からの行為として近親相姦もあります。部屋の壁には十字架上のイエス像が掛かっています。母親に敬虔さは感じられませんが、映像としてはイエス像が意識して入れ込まれています。後に父親が何十年ぶりかに帰ってきますが、その父親は聖職者のよう(はっきりしていない…)です。子どもがいることを知らなかったと言っていますので、夫婦であったかどうかもわかりません。ただ、母親は歓迎しています。
かなり背徳的な先を予想させる始まりです。
監督のロルフ・デ・ヒーアさんはオランダ系のオーストラリア人で、1951年生まれですから当時42歳くらい、現在72歳くらいの方です。アデレードに「Vertigo Productions」という制作会社をもっています。
バビーは見たものや聞いたものの学習力に優れており、目にした行動や誰かが発した言葉をすぐに覚えます。ただ、単に音声として学習するだけですので優しい言葉から汚い言葉までごちゃまぜで意思疎通にはなりません。これが映画の後半には大きな意味をもってきます。
また、見たことをそのまま学ぶという点では、たとえば父親が戻り、母親の胸を触り、大きくて美しいと言い、それを母親が喜ぶ姿をみれば、後に外に出て、いきなり見知らぬ女性の胸を触りながら父親の言葉そのままを発することもします。
バビー、外界へ…
父親が戻ってきたことからバビーの人生が動き始めます。
ある日、ジャマだと家から放り出され、外でも生きていけることを学習し、以前、母親から口と鼻をふさがれることが苦しいことであり、その後ラップを猫の顔に巻き付ければ動かなくなることを学習していたバビーは、両親が寝ているときに二人にラップを巻き付けて静かにさせます。もちろん殺人という意識はありません。
そして、バビーは外に出ます。様々な人に出会い、様々な体験をします。
救世軍(The Salvation Army)に出会い、一緒に歌い、ピザというものを知ります。この後はいつもピザを注文するようになります。
地方の町々を回るロックバンドに出会い手伝いをします。その誰もがバビーを自然に受け入れ、バビーのユニークさを楽しんでいます。このロックバンドとは、その後離れたり再び出会ったりし、最後にはバビーがこれまで聞いて覚えてきた言葉をシャウトするパフォーマンスが客に大受けし、その様子はロックスターのようです。ライブハウス(田舎のクラブ…)で客がバビー、バビーとコールし、店内が暗くなり、バビーが登場して歌い(叫び…)大盛り上がりという演出まであります。
これがクライマックスで The End…というわけではありません(笑)。
神は存在しない…
結局、バビーは目的があって行動しているわけではないということなのか、脈絡なく出会いが進んでいきます。このパターンが映画の2/3ほどを占めますので後半はやや飽きてきます。
ロックバンドとの最初の出会いの後はその知り合いなのかよくわからない男と行動し、レストランに食事にいき、入ってきた女性を見つめていますと、男に気に入ったのなら声を掛ければいいと言われ、学習した父親の言葉を発しながら胸を触り大きくて美しいなどと言いますので女性は逃げます。追いかけたバビーは逮捕され留置所に入れられ、そこでレイプされます。
釈放された後は教会に入り、そこにいた男(The Scientist)と宗教問答のようなシーンになります。要点としては「神は存在しいない。こんなひどい世界をつくった神などいるはずがない。神が存在しないと考えるのは我々の義務だ」みたいなことでした。
そのシーンのスクリプトがIMDb にありました。長いですし英文ですのでリンクを記しておきます。興味があればどうぞ。
このシーンはこの映画のテーマ的なことのようにも思えますが、そもそもロルフ・デ・ヒーア監督がもともと無神論者であればこうしたシーンやイエス像を強調した撮り方はしませんので、ある種の葛藤が表現されているんだろうとは思います。
近親相姦や猫や両親を窒息死させるなどの背徳的なことや、バビーにあれこれ社会規範を破らせることも社会への問題提起的な意図があったんだろうと思います。
その後はすでに書きましたロックスター的なパートがあり、また障害者ケアセンターで障害者と出会い言葉を介さない意思疎通を体験し、また世話人のエンジェルと親しくなります。バビーはエンジェルの胸に母親の胸を重ね合わせているようで、大きくて美しいとエンジェルに伝えます。エンジェルもそれを受け入れています。
障害者のひとりとの意思疎通がバニーに変化ももたらしたのかも知れません。障害者とバビーが抱き合っています。障害者の何らかの求めに対してバビーが涙を流しながらそれには応えられないと言っています。
教会のシーンで The Scientist はバビーに「神が存在しないと考えるのは人間の義務であり、そうすれば我々には未来がある。なぜなら、その時我々は初めて自分の存在に責任を持つことになるのだから」と言っています。
それを実行したということなんでしょうか。バビーは、エンジェルの両親がエンジェルが太っていると言い、激しく侮辱したことから、その両親をラップで静かにさせます。エンドロールでは、バビーとエンジェルが3人の子どもたちと庭で戯れています。
アブノーマルとは言わせない…
という映画です。内容的には30年前という古さを感じません。今あらためて劇場公開したのも配給にそう感じる人がいたからかもしれません。
それに、公開にあたっての邦題を「アブノーマル」にしなかったことには30年の変化というものも感じられます。我々もバビーと同じように多くのことを学んできたということかも知れません。
映画のつくりとしては冒頭の部屋のシーンから耳にカーンカーンとくる音響処理が気になっていたのですが、バビーを演じているニコラス・ホープさんの音声をかつらの中に仕込んだバイノーラルマイクで録音していたそうです。バビーが実際に耳にしている音を表現したかったからとのことです。
また、この映画には撮影監督が32人(31人?)関わっており、バビーが行く場所ごとに撮影監督をかえていたということです。これはどうなんでしょう、その意図はあまり伝わってきませんでしたし、後半のまとまりのなさもそうしたところから来ているのかもしれません。
ロルフ・デ・ヒーア監督は、この映画の前にマイルス・デイヴィスが亡くなる直前に出演した「ディンゴ」という映画を撮っています。マイルス・デイヴィスが亡くなったのは1991年、映画の製作年も1991年です。1995年に日本でも公開されています。
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演奏していますし、演技しています。記憶がよみがえりませんので見ていないかもです。