社会システムの欠陥を個人の問題にすり替えてはいけない
すごい映画ですね。憎悪や悪意など何もないのに次から次へと人が傷ついていき、挙げ句の果てに…という、救いなし、癒やしなし、不条理の極みの映画です。
と思ったのですが、よくよく考えれば…と思いなおした映画です。
イラン映画です。監督は、主演でもあるマリヤム・モガッダムさんとプライベートでもパートナー(らしい)のベタシュ・サナイハさんのふたりで、脚本も連名になっています。
なお、この下に進みますといきなりネタバレしています。ミステリー要素もある映画ですのでご注意ください。
神の名の下の不条理
映画の主要なプロットは、夫が冤罪で死刑になった妻に対して、その判決を下した判事が正体を隠して金銭的なサポートするが、その事実を知った妻はどうするかというものです。
どう考えても危ういですね。その危うさでドラマが生まれるという映画です。
ただし、それは主に映画の後半で明らかになってくることで、前半は、夫の死刑が執行されるその日のシーンと、そして一気に一年後の妻の生活へと進み、社会の不条理が強く打ち出されています。
夫の処刑の日
ファーストシーンは夫の死刑執行の日、妻のミナ(マリヤム・モガッダム)が最後の面会にいきます。ミナが面会を求めるカット、通路を歩くカット、夫が収監されている牢獄にミナが入るカット、そして閉ざされた扉、その奥からミナの慟哭がもれてきます。
多くのカットが正面からきっちりと四角に切り取られたフィックスの構図で、その中で人物が正面を向いていたり、真横に向いていたりといったかなり硬い印象のものが多いです。また、シーン替わりには、車の走行音であったり、ドアの開閉音であったりのSEがかなり大きな音で入れられており、ビクッとします。
つまり、かなり計算されて作り込まれた映画だということです。カットの構図はトレーラーでもよくわかります。日本版のトレーラーはテレビのサスペンスドラマみたいに煽っていますので海外版のほうがいいです(ペコリ)。
一年後、冤罪が判明する
一気に一年後にとびます。ミナは10歳くらいの娘ビタと暮らしています。ミルク工場で働き、家では空き瓶を贈答用に装飾する内職をしています。娘のビタは聴覚障害者です。父親の影響で映画好きらしくテレビで映画を見るシーンがかなりあります。字幕がついていたかどうか記憶がありません。
ビタは学校へ行きたくないと言っています。映画の中頃にミナが教師からビタが皆に嘘を言っている、つまり、家は裕福で父親は遠くへ行っているがたくさんお金を送ってくるといったことを皆に話しているということですが、それに対してミナは、それは私がビタに話していることですと答えていました。
ただ、こうしたビタの細部は本筋には絡んできません。絡んでくるのはミナの夫の父親がビタの親権を求めているらしく、後半では訴訟を起こされていました。また、夫の弟がミナとの結婚を求めているようでした。イスラムですので、おそらく父親の意向はビタを手元に置くためにミナと弟を結婚させようとしているということでしょう。
という背景の中で、ミナは裁判所に呼び出され、夫は冤罪であった、真犯人は証人のひとりであった、賠償金が支払われると告げられます。
事件そのものは映画に絡んできませんのでかなり雑です。夫が被害者を殴って逃げた後に、後に証人となる男が被害者を殺したということです。理由は借金です。
いくら何でも捜査が雑すぎるだろうとは思いますが、単に映画的な処理なのか、現実にイランではあり得ることなのか、どうなんでしょう?
神こそが不条理を隠すための装置
で、映画が前半のテーマとしているのは、人が人を裁くということの意味です。この映画では事件そのものには触れていませんのでなにが正しかったのかという視点は無意味です。問題は裁判官である人間は間違いを犯すことがあるということです。
裁判所の人物がミナに夫への死刑の判決は間違っていた、冤罪であったと告げる時、「神」が持ち出されていたと思います。また、その通告を一緒に聞いた夫の弟も後に「神」を持ち出し、もう済んだことだといったニュアンスのことを言っています。
映画の中盤から終盤にかけての軸となる、夫の友人を語ってミナを訪ねる男は死刑判決を出した裁判官のひとりですが、その男レザが辞職する際に、同僚(ミナに夫の冤罪を告げた男)も「神」を持ち出しています。すべては「神」の意思とまではいっていないにしても、ほぼそれに近く、人間に罪はないということです。
無神論者からみれば、「神」の存在は、人間が社会という人為的なものを維持していくために生み出した、社会の不条理を隠すための装置ということになります。さらに言えば、人は言葉を持った時点で、もう自然発生的な社会で生きられる存在ではなくなったということです。
話が飛躍してしまいました(笑)。
レザの贖罪、ミナの決断
ある日、ミナのもとに夫の友人を名乗る男レザが訪ねてきます。夫にお金を借りていたので返したいと言います。さらに、ミナがそのレザを家の中に入れたことで大家から出ていくように告げられた時には新しい住まいを提供し何かにつけてサポートを申し出ます。
その登場時はどういうことなんだろうと思いますが、なんと意外にも、映画はレザが裁判官のひとりであることをすぐに明かしています。レザが同僚に辞職すると告げ、神がどうこうと言われ引き止められるシーンです。
へぇー、ちょっと変わっているなあと思いながら見ていましたが、結局、映画の主要なテーマが「ゆるし」ということだからなんでしょう。いったい男は誰なのかで引っ張るのではなく、ミナがそれをいつどうやって知り、知った時どうするかということで引っ張っていく映画だということです。
レザの贖罪の行為
レザの贖罪の行為が続きます。そしてそれがいつしかミナのレザへの愛情へと変わります。
ミナが見知らぬ男を家に入れたからといって大家から追い出されることもあるというイスラムの社会ですので、ミナとレザの個人的な関係を描くためにレザの家族関係が使われています。レザには息子がおり、その息子は父親の干渉を嫌がり兵役につくといって出ていきます。そしてある日、突然その息子が薬物の過剰摂取で死亡したとの知らせが入ります。レザはショックで倒れ、医師からひとりで置いておいてはいけないと言われたということでミナが家に泊めることになります。
あらためて思い返してみますとかなり作りもの臭いですね。
で、ミナとレザが関係を持つシーンは、これが欧米の映画であればキスをして云々となりますが、この映画では、ミナがなにかを思い切ったように赤い口紅を塗り、レザを泊めている部屋に入っていくシーンで描いていました。この口紅のシーンはラストシーンにつながっています。
ミナの決断は復讐か、赦しか
ミナは夫の父親からビタの親権をめぐって訴訟を起こされています。レザが裁判所に知り合いがいるから力になれると言います。そしてその判決日、ミナが車で待つレザのもとに興奮して戻ってきます。女の自分に親権が認められた、奇跡だ、信じられないと言っています。のどが渇いたというミナ、水を買ってこようと外に出るレザ、ミナの電話がなります。カメラがゆっくりと車の外のレザにパンします。電話のやり取りの音声が流れます。夫の弟からです。売女! お前は夫を殺した男と寝ているのだ! と激しく罵倒します。売店のレザをとらえていたカメラが、再びゆっくりとミナに戻ります。硬直するミナです。
家です。ミナがミルクを温めています。赤い口紅を塗ります。レザが食事をしています。レザの向かいに座るミナ、ミルクを温めたから飲んでと言います。戸惑うレザ、かなり長い間合いがあり、レザが一口飲みます。しばらくあり、そしてもう一口飲みます。レザの様子が変わります。苦しみ始め、飲んだミルクをもどし崩れ落ちます。そして息絶えます。
バス停でバスを待つミナとビタ、そこに食卓の椅子に座り真正面を見つめるレザのカットが挿入されます。
ミナは復讐したのか、それとも赦したのか、という終わり方です。
社会の欠陥は個人の赦しでは解決しない
人の過ちを許すべきか、許すことが出来るかという問題は、個人対個人の場合には成り立ちますが、この映画が問題としているのは、社会システムとしてある司法制度の中の個人の判断ですので、こういう描き方で個人対個人を対決させることには意味がありません。
自分が過ちを犯したと思う裁判官はいるでしょうし、それを悔やむことを映画にするのであれば、少なくともこういう形ではないでしょう。正論で言えば、過ちを犯したと悔やむ者は直接謝罪したいと思うでしょうし、被害者にしてみれば謝罪が癒やしのひとつになることも間違いないと思います。映画が描くべきはそこからでしょう。この映画のように描けばそりゃドラマチックにはなるんでしょうが、それだけで終わってしまいます。謝罪しても結局癒やしにもならないのに謝罪するしかないというその不条理こそが人間が抱える根源的なものです。
結局この映画の問題は、社会システムの問題を個人の問題として描いていることと、判決を下した一裁判官が被害者となった個人に直接償おうとすることのリアリティのなさにあるのだろうと思います。