この映画は、2015年にノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチさんの代表作『戦争は女の顔をしていない』に着想を得て生まれたものとのことです。監督は、映画制作当時26、7歳(現在31、2歳)のカンテミール・バラーゴフ監督、戦闘は終わっても決して終わることのない戦争を描いています。
2019年のカンヌ映画祭ある視点部門の最優秀監督賞を受賞しています。独ソ戦に兵士として従軍したふたりの女性が軸になっているのですが、そのふたりの俳優がほぼ新人ということも驚きの映画です。
ふたりの俳優の不思議な存在感
映画は、第二次世界大戦に従軍しドイツと戦ったふたりの女性兵士、イーヤ(ヴィクトリア・ミロシニチェンコ)とマーシャ(ヴァシリサ・ペレリギナ)の関係を軸に進みます。始まってしばらくはこのふたりに妙な違和感を感じます。イーヤはPTSDを病んでいることが早くから明らかにされますので、そういうことかなとある程度は理解できますが、マーシャの方はあまり感情の起伏が表に現れることはなく、その表情、特に笑顔にかなり奇妙な感じをうけます。その行動パターンも一般的な理解を越えたところがあります。
ふたりには戦場での体験により自我崩壊が起きているということです。単にPTSDが発症するということではなく、常に日常に違和感が感じられている状態ではないかと思います。言い方を変えれば、今生きている世界に現実感がないということでしょう。それがわかってきますと、映画にもぐっと入り込むことができますし、このふたりの俳優の存在感によって映画が成立していることにも気づきます。
イーヤを演じているヴィクトリア・ミロシニチェンコさんはこの映画がデビュー作です。撮影当時は23、4歳でかなり身長が高くIMDbには1.82mとなっています。
マーシャのヴァシリサ・ペレリギナさんもこの映画がデビュー作で同い年かひとつ下くらいの年齢です。The Russian State University of Cinematography(VGIK)(ロシア国立映画大学)在学中にこの映画のオーディションを受けたとのことです。
マーシャの帰還
1945年、第二次世界大戦終戦直後のレニングラード、イーヤ(ヴィクトリア・ミロシニチェンコ)はレニングラード病院で看護師をしています。背が高いことからのっぽ(英題のBeanpole)と呼ばれています。イーヤは戦時中は対空砲手として前線で戦っており、現在もPTSDに悩まされています。
最近の映画には多いパターンですが、映画冒頭の配給や制作会社のロゴが映し出されている時から本編の音声が入ってきます。かすかな呼吸音や断続的にカッ、カッという乾いた音がしています。
イーヤの横顔のアップです。音はイーヤの発する音です。顔は硬直し目も一点(ではなく何も見ていない)を見つめたまま全く動きません。まわりの看護師たちが発作よ、今日は長いねと話しています。ただ、その声はくぐもっています。PTSDの発作です。やがてまわりの声やノイズが明瞭になり、イーヤも発作から戻ってきます。そして何事もなかったかのように仕事に戻っていきます。
イーヤはパーシュカという3、4歳の子どもと暮らしています。病院長はそんなイーヤを何かと気遣っているようで一人分の配給に余裕ができた(多分、ひとり死んだということだと思う)からとイーヤに与えています。この病院長は良識ある人物として描かれ、イーヤの父親のようなポジションに置かれていますが、後に単にそれだけではないことが明らかになります。
そしてある時、事故が起きます。イーヤが家でパーシュカと戯れています。イーヤに発作がおきます。その時たまたまイーヤはパーシュカに覆いかぶさった状態です。パーシュカは身動きできないまま窒息死します。
何日か後(多分)、戦友のマーシャ(ヴァシリサ・ペレリギナ)が帰還します。この何日間は一切描かれません。発作のシーンから一気にイーヤとマーシャのシーンに飛びます。見ている時はかなりの違和感を感じたんですが、今から思えばとても効果的だったと感じます。
パーシュカはマーシャの子どもです。マーシャが戦場で産み、イーヤが負傷で除隊する際に預けたということです。もしここで映画がパーシュカの死にこだわっていたらこれから始まるイーヤとマーシャの激しい心のぶつかり合いがふたりの個的なものに見えてしまいます。そうではなく、ここは人の死が日常になってしまう戦争という世界であり、その中に置かれたふたりの女性の物語だということです。
マーシャの不可解さ
この映画には悲しみを語るところがありません。悲しみがあるにしてもそれをいわゆる情に訴えるところがありません。マーシャ帰還のシーンがその典型です。
イーヤの発作によるパーシュカの死から一気にマーシャ帰還シーンです。シーンは暗いです。イーヤが暗くしているのでしょう。マーシャがライターを灯します。ふたりの顔が浮かびます。ときに笑顔を浮かべながら語りかけるマーシャと力なくうなづくだけのイーヤが対象的です。かなり長いシーンですがワンカットだったと思います。マーシャからのパーシュカに関するほぼ一方的な会話で進み、マーシャが極めて自然な口調でパーシュカはいないのねと言いますとイーヤが震えた声ながらこれも極めて自然に死んだと答えます。
イーヤは常に何かに怯えているような不安定な人物として描かれています。それだけにある意味では理解しやすいのですが、マーシャはかなり複雑な人物です。
その後のマーシャの行動も一般的価値観で理解するのは難しいです。踊りに行こう(だったか?)とふたりで外出します。ふたりの男にナンパされます。マーシャが自らの意志でナンパされます。ひとりの男がイーヤに散歩しようと言い、拒否感を顕にするイーヤにマーシャが行くように仕向けます。車に残ったマーシャはもうひとりの男サーシャに誘いをかけ覆いかぶさってきた男に私に任せてと自ら男を受け入れます。男は初めてということだと思います。
イーヤが戻ってきます。マーシャに覆いかぶさる男を引き剥がし外に放り出します。マーシャはにやっとした笑顔を浮かべています。散歩にいった男は腕を抱えてへし折られたと言っています。
マーシャの不可解さが映画の焦点になっていきます。
マーシャの残酷さ
映画は中盤に入りいくつかのことが並行して描かれていきます。
マーシャはイーヤと一緒に暮らし病院で働くことになります。というよりも本人の意志で病院で働くことにしたということです。病院に政府の女性幹部が戦傷者たちの慰問にやってきます。マーシャがナンパしたサーシャが一緒に来ています。後にわかりますが、その幹部はサーシャの母親です。これを機にサーシャが食べ物を持ってマーシャを訪ねてきたりとしきりにアピールするようになります。
マーシャのお腹には真横に深い傷跡があります。集団入浴シーンではイーヤに爆弾による傷だと言っていたのですが、病院で倒れた際に病院長から子どもが産めない体になっているがと、もちろんマーシャにはわかっていることとして明かされます。
ある時、マーシャがイーヤにあなたが私の子どもを産むのと、もうすでに決定されたことのように言います。
こういうシーンがこの映画のすごいところで、感情を交えて描くようなことはしません。マーシャはそれが自然であるかのように言い、それに対するイーヤの反応もリアクションという意味では全く描かれません。ただ、イーヤは常に不安や恐れを抱えている人物ですので、それを受け入れているわけではありません。心の不安定さにどうしようもないこととはいえ自分の過失でパーシュカを失ってしまったという自責の念がさらに加わっているのでしょう。
入院中の戦傷者に首から下が麻痺し回復不能の男がいます。イーヤに親しげに声をかけたり、パーシュカと遊んだり、病院長の診察が描かれたり、妻がやってきたりと映画の早い段階から焦点が合わされている人物です。病院長に安楽死の処置を求めます。妻も同意します。
病院長はイーヤにその処置をこれが最後だからと指示します。つまり、初めてのことではなく過去にも同様のことをイーヤに指示しているということです。
そしてこの経緯をマーシャが知ることになり、マーシャは病院長にイーヤが生むべき子どもの父親となるよう脅します。イーヤはマーシャの求めを激しく拒否します。その激しい争いの中、イーヤはマーシャに執拗にキスをしようとします。
イーヤのマーシャへの気持ちが性的な意味も含んだ愛情なのか、依存なのか、精神的混乱からなのかはよくわかりません。ただ、イーヤが生きていくためにはマーシャが必要であることだけは間違いはありません。
そしてその、何と表現すべきか、性交渉とも言えず、言葉はよくありませんが種付けのような行為は実行されます。イーヤはいわゆる取り乱した状態になっています。マーシャに一緒にいてと言い、マーシャがベッドに後ろ向きに横たわり、イーヤはその背中にくっつくように重なり合い、病院長は行為を実行します。
この時ベッドの上でイーヤとともに自分の意志とは無関係に激しく体を揺さぶられるマーシャの頭の中には後に明らかになる戦場での記憶が蘇っていたのかもしれません。
緑色へのこだわり
この映画は全体として深みのある色合いにこだわって撮られていますが、特に緑色へのこだわりが強く現れています。前半はそのことに気づきませんでしたのでどのシーンでどう表現されていたのかはわかりませんが、後半ではふたりで壁を緑に塗ったり、緑色のドレスが象徴的に使われています。
色に何を感じるかは人それぞれですのでバラーゴフ監督が緑色に何を象徴させているのかは断定できませんが、少なくとも望ましいものであることは間違いないでしょう。
終盤、イーヤが親しくしている仕立て業の女性がマーシャを仮縫いのボディ代わりにするシーンがあり、マーシャが緑色のドレスを着ます。作業が終わり、マーシャがこれを着て回ってもいいかと尋ねて、くるくるとひとりで回り始めます。それは次第に激しくなり、さらにマーシャは何かがはじけるように大きな声で笑い始めます。
おそらく、現実にはやってこないであろう心が開放された瞬間なんだろうと思います。
後日、マーシャはその緑色のドレス着て、サーシャの求めに応じてサーシャの両親に会いに行きます。このあたりではやや映画に混乱が感じられますが、とにかく、すでにこの頃にはサーシャは頻繁にふたりの部屋を訪れるようになっておりマーシャとの結婚を望んでいるようです。イーヤはそのことを嫌がっていますが、それでも自ら緑色のドレスを借りてきてマーシャに着せて送り出します。
サーシャの両親は貴族のような住まいと生活です。スターリンの時代ですし、政府高官だとすれば共産党員ですし、さらに終戦直後のレニングラードですのでかなり奇妙な設定です。
とにかく、犬の散歩中の母親と出会い、マーシャを婚約者だと紹介するサーシャに母親はお送りしなさい(マーシャを)とにべもありません。それでもサーシャはマーシャを連れて家(豪邸)に入り、朝食中のテーブルにつきます。
マーシャと母親の激しいぶつかり合いです。この時、父親もいますが、サーシャとともにふたりの男たちはまるで蚊帳の外の存在です。
母親は極めて礼儀正しいがゆえにマーシャを見下した口調で結婚は? 戦場では何をしていたのか? とその素性を正し始めます。マーシャは、夫は戦死した、その復讐のために戦ったなどと答えるうちに、何人もの夫を持った、そのたびに堕胎した(だったか?)と母親を目を見据えて答えます。マーシャのお腹の傷跡は帝王切開に類する手術のものかもしれません。
そしてふたりに未来はあるのか
これもやや映画が混乱していると思われますが、終盤になり、一旦はイーヤに妊娠の兆候がみられましたがすでにそうではないことが明らかになっています。
マーシャがサーシャとともにでかけている時、イーヤは病院長の家に向かいます。病院長はすでに辞職しています。解雇されたといったシーンがありましたが、自ら去ったのではないかと思います。イーヤは病院長にもう一度してほしいと言います。サーシャにマーシャをとられたくないがためにでしょう。病院長は私と一緒にここを去ろうと誘います。
マーシャがトロリーバスで家に向かっています。緊急停止し、人だかりができ、のっぽが轢かれたの声が聞こえてきます。マーシャはトロリーバスの下を覗き込み、そのまま急いで家に戻ります。
家には荷物を整理し佇むイーヤがいます。ふたりは抱き合います。
字幕がひどすぎる
バラーゴフ監督は日本公開に合わせてのメッセージで上映への感謝とともに「stand with ukraine」とウクライナへの支持を語っています。
監督本人としては望むことではないでしょうが、あまりにもタイムリーな映画になってしまいました。それだけに悲痛な面持ちのメッセージです。実際にニュースなどで放映されるウクライナからの映像にも女性兵士が登場しています。映画と同様のことが現実に起きている可能性があるということです。
さらにこの映画が戦争の悲劇を情で語っていないことからより現実感が増しています。戦争というまっただ中にあれば涙もないのかもしれません。
ところで、最近の字幕ってもうむちゃくちゃですね。文字数も、文字間も、文字サイズも、字体も、まったくルール無視になっています。
この映画の字幕を読んでいたら映画そのものが理解できなくなります。翻訳そのものにも信頼が置けなくなってきます。
もう少しなんとかならないものかと思います。字幕制作にあまり予算が組めなくなってきているのでしょうか、残念なことです。