ポール・ヴァーホーヴェン(ポール・ヴァーホーベン/ポール・バーホーベン)監督による、前作「エル ELLE」に続くポスト・フェミニズム(ELLEについてイザベル・ユペール談)映画です。
前作からかなり年数が経っていますが、当初の予定では2019年のカンヌ国際映画祭でプレミア上映だったものが、結局、監督の股関節の手術や新型コロナウイルスの影響で2年遅れの2021年のカンヌのコンペティションに出品されたということです。
慎みのない行為
17世紀のイタリアに実在した修道女ベネデッタ・カルリーニの物語です。映画が下敷きにしている本があります。
1985年にオックスフォード大学出版局から出版され、翌年にはペーパーバックでも出版されています。著者のジュディス・C・ブラウン(Judith C. Brown)さんは、現在ウエスレヤン大学の歴史学の名誉教授です。
本の原題は『Immodest Acts: The Life of a Lesbian Nun in Renaissance Italy』で直訳しますと『慎みのない行為:ルネッサンス期イタリアにおけるレズビアン修道女の生活』です。
ジュディス・ブラウンさんは、ヨーロッパにおけるレズビアンに関する最も古い記録を調査したことからセクシュアリティについての歴史研究のパイオニアと言われている方です。
she is considered a pioneer in the study of the history of sexuality whose work explored the earliest recorded examples of lesbian relationships in European history.
(ウィキペディア)
この著作のことを指しているんだと思います。ですので、基本的には研究書(論文)のようなものかもしれません。
で、このベネデッタをフェミニスト(かどうかは知らないが、少なくとも ELLE 以降は…)ポール・ヴァーホーヴェン監督がどう描くかという映画です。
イエスのビジョン…
レズビアンに焦点を当てた映画ではありません。もちろんひとつの要素ではありますが、それだけではなく自らの意思で生き抜いた女性を描いた映画です。その意味では、この映画のベネデッタは「エル ELLE」のミシェル(イザベル・ユペール)に通じるものがあります。ただ俳優の違いが明確に現れた映画でもあります。ベネデッタを演じるのは「エル ELLE」にも出ていたヴィルジニー・エフィラ(ビルジニー・エフィラ)さんです。
また、映画はほとんど創作と考えたほうがいいです。ウィキペディアのベネデッタ(Benedetta Carlini)の項目を読みますと、宗教的トランス状態になることができる人物じゃないかと思います。もちろんそれが事実か詐称なのかは誰にもわかりません。当然ながら映画が使っているペスト(流行はあったが…)によるロックダウンやジャンヌ・ダルクもどきの火刑は映画の創作です。
9歳のベネデッタが両親に連れられペシアの修道院に向かうところから始まります。その道中のワンシーンでベネデッタの堂々たる振る舞いを見せています。数人の悪党(盗賊?)に囲まれ金品を要求されるのですが、ベネデッタが、神はお赦しにならない(みたいなこと…)と言いますと悪党の顔に鳥が糞をするというシーンです。奇跡ということではなく、ベネデッタの何事にも怯まない意志の強さを見せているシーンです。
そして修道院、その夜眠れずに起き出したベネデッタはマリア像を前に祈り始めます。突然マリア像が倒れてきます。修道女たちは押しつぶされなかったのは奇跡などと言いますが、ベネデッタはその瞬間目の前のマリア像の乳房に自らキスをするのです。わかりやすい演出です(笑)。
そして、18年後です。神父(いたと思う…)や修道女たちを前にしてベネデッタ(ヴィルジニー・エフィラ)を主役にした演劇が催されています。その最中ベネデッタがイエスのビジョンを見ます。
このイエスのビジョンは、この後数回映像として表現されるわけですが、メシアとしての存在よりも明らかにひとりの男性としてベネデッタの前に登場してきます。ベネデッタが数匹の蛇(悪魔…)に襲われたときには刀で滅多切りにしたり(笑)、後にベネデッタに聖痕が現れるときには自ら(イエス…)の腰布を取れと命じてあたかも性行為であるかのように手と手を合わせ、つまり体を合わせ、それに対してベネデッタは歓喜の嗚咽にも似た声を出していました。
実際に歴史上のベネデッタはイエスが自分に求婚するビジョンを見たことを証言しているようですので、ヴァーホーヴェン監督はそれを使っているんだとは思いますが、おそ、らくその意図としては、イエスをベネデッタと対等の人間にすること、それは宗教的な意味合いということではなく、ベネデッタを宗教という枠を超えた人間として描こうとしたんじゃないかと思います。
世はすべて俗…
そもそもヴァーホーヴェン監督は無神論者なんでしょう(未確認…)。この映画には修道院という空間を描きながら宗教的な雰囲気がまったくといっていいほど感じられません。
実際、アメリカでの上映にはカトリック団体からレズビアン描写が冒とく的であると抗議が起きたり、シンガポールやロシアでは上映禁止になっています(上映禁止の範囲は未確認、ウィキペディアから…)。
幼少のベネデッタが修道院に入る際のいきなりの持参金の値切り交渉にびっくりします。修道院長(シャーロット・ランプリング)が持参金を期待していると言いますと父親が金額を言います。すると修道院長はその倍の金額をふっかけます。父親は間を取ってその中間の金額を提示します。修道院長は拒否します。やむなく父親は言い値の金額を支払うことにします。
修道院長が強欲だと描いているわけではありません。それにキリスト教批判という意味合いもないのではないかと思います。ただ宗教世界を俗社会と同様の権力構造として描いているだけです。
ベネデッタが聖痕を得て修道院長となるくだりの描写も同様で、教区の司教は自らの出世のためにベネデッタの傷を聖痕と認めて修道院長にします。前修道院長もそれをわかった上でその職から退きます。
フィレンツェの教皇大使(と字幕にあったが大司教じゃないか…)のシーンも徹底的に俗化されています。前修道院長がフィレンツェの教皇大使に、ベネデッタが慎みのない行為(レズビアン行為)をしていると告発にいきますと、教皇大使は何か(パスタか…)食べながら応対しますし、そこに飲み物(だったか…)を持ってくる女性は妻なのかどうかわかりませんがお腹が大きく胸も大胆に見せるドレスを着ています。
レズビアンというよりも…
「エル ELLE」もそうでしたが、ヴァーホーヴェン監督はあまり緻密な映画を撮る監督ではありません(ペコリ)ので、結構シーンによって人物像が変化したりします。「エル ELLE」の場合はそれをイザベル・ユペールさんが見事にイザベル・ユペールとして統一したという映画ですが、この映画のベネデッタ(ヴィルジニー・エフィラ)とレズビアンの相手となるバルトロメア(ダフネ・パタキア)は結構揺れ幅の大きい人物になっています。
ベネデッタがまだ一修道女の頃、バルトロメアが父親に追われて修道院に逃げてきます。バルトロメアは神に仕えたいからと言い、修道院長がそれを認めてベネデッタに面倒をみるように命じるわけですが、後にバルトロメアはベネデッタに、父は母が亡くなってから自分を母代わりにしてきた、兄たちも自分を弄んだと、つまり性虐待、性暴行を受けていたと語るわけですが、その後の振る舞いがかなりあっけらかんとしていますし、ベネデッタを性行為に誘うのもバルトロメアの方からです。とにかくこのバルトロメアはあまりパターンのはまる人物ではありません。というよりさほど明確に人物造形されていないのではと思います。ベネデッタが火刑になるシーンでは愛していると言っていたように記憶しています。
ふたりの性行為のシーンが2、3シーンあります。これもレズビアンというよりもベネデッタがバルトロメアを相手に自慰行為をするような性行為で、どちらにも愛があるようには見えず、男性が考える女性の性欲望といったアダルトビデオのようなシーンです。
異性愛者である(多分…)男性ヴァーホーヴェン監督にはレズビアンは撮れないということだとは思いますが、いい方に解釈すれば、レズビアンであるかどうか関係なくベネデッタは性愛さえも自分の意志のもとに置くということかと思います。前修道院長に告発され、教皇大使の審問においても全く動じない姿はそうしたベネデッタを見せるためだと思います。
俳優の差か…
かなりいい加減な審問ではありますが、結局、ベネデッタは火刑に処せられることになります。そんな史実はありませんので、ジャンヌ・ダルクと重ね合わせているのでしょう。
ベネデッタの人物像の揺れ幅が最大になるシーンです。これまで何ごとにも動じなかったベネデッタがこのときかなり激しく動揺して抵抗します。
私は動揺しちゃいけないと思いますが、ヴァーホーデン監督もこの動揺を認めているということですのでどういう意図なんでしょう。私はこれは失敗だと思います。
とにかく、ペスト騒ぎの民衆たちの暴動により火刑を逃れたベネデッタとバルトロメアはペシアの町からずいぶん離れた小屋で目覚めます。これもどういう意味かわかりませんが、ふたりとも全裸です。愛し合っていたということなんでしょうかね(笑)。
ふたりで逃げようというバルトロメアに、ベネデッタはなんと言ったか記憶していませんが、ペシアの町にひとりで戻っていきます。そして、スーパーで、ベネデッタはその後40年(くらいの年数だったと思う…)牢獄で暮らしたと入ります。
やはり、ヴァーホーヴェン監督の意図はベネデッタを完全に自由な女性に描きたかったのでしょう。牢獄に囚われるのも自分の意志ということです。
結局この映画は、ヴィルジニー・エフィラがポール・ヴァーホーヴェン監督を超えられなかった、つまりイザベル・ユペールが「エル ELLE」で監督を超えて自らの映画にまで高めたところまではいけなかった映画ということだと思います。