理解できない相手は必ず洗脳に見える…
「リトル・ジョー」「ルルドの泉で」のジェシカ・ハウスナー監督です。主演はミア・ワシコウスカさん、たくさん見ている俳優さんですが、前作は「ブルーバック あの海を見ていた」というオーストラリアで撮った映画で、現在ワシコウスカさんはハリウッドの空気が肌に合わずにオーストリアに戻っているとのことです。
人が食から解放されれば世界は変わる…
ほぼ前作の「リトル・ジョー」と同系統の映画です。
物語の寓話性を強調するためにあらゆることをミニマムにつくりあげています。美術や衣装などのヴィジュアルはカラフルですが基本はシンプルモダンですし、構成や俳優の演技も極力感情的なものを排して無機質につくられています。
物語は単純です。教師が生徒を洗脳して親元から連れ去るという話です。
ボーディングスクールかなと思いましたが、生徒が家で食事するシーンが結構ありましたので通学も可能な学校の設定のようです。ひとりの生徒は奨学金云々という話をしていましたが、概ね富裕層向けの学校だと思います。
栄養学の教師ノヴァク(ミア・ワシコウスカ)が新任でやってきます。あれこれ物語の枝葉はありません。すぐに生徒たちに「conscious eating(意識的食事)」という考え方を説き始めます。要は人が食べるという行為は資本主義の骨幹であり(そんなことはいっていないけれど…)、食品産業、飲食産業を儲けさせるだけでなんら社会にいいことない、食べることで得られる満足感は意識的に変えられる、要は食べたと思えば満足感は得られるということのようです。
このこと自体はツッコミ無用の設定ですのでどうこう言っても始まりません。映画が語ろうとしているのは、基本的にはこれが正しいということはどこにもない、信じるか信じないかということでしかない、という世界がすぐそこにやってきているということかと思います。
理解できないものは常に洗脳されているように見える…
生徒たちはノヴァク先生に洗脳され何も食べなくなっていきます。家族とのトラブルがいくつか描かれますが、生徒たちはいっときは親の前では信じることを偽ったとしても信念を曲げることはありません。
ところで、わかりやすいように洗脳という言葉を使っていますが、この映画の親たちの思考、たとえば食べなければ死んでしまうという考え方がはたして洗脳ではないと言えるのかという意味において使っているだけで、生徒たちが洗脳されて間違ったことをしているということではありません。
ついにノヴァク先生は「クラブゼロ」を説きます。まったく食べないということでしょう。生徒たちは実践します。しかし、その本筋ではないところから学校を去らねばならなくなります。ひとりの生徒と個人的な関係を持ったために解雇されます。生徒とともにオペラを見に行ったということです。
そしてクリスマスの日、ノヴァク先生のいなくなった生徒たちはそれぞれ家で親とともに食事をとりクリスマスを祝います。
しかし、翌朝、クラブゼロの生徒たちは姿を消します。彼彼女たちはノヴァク先生と一生にクラブゼロの世界で生きています。
エンドロールの背景は親たちが困惑の表情を浮かべて居並ぶシーンで終えています。あれ、静止画かと思ってぼんやり見ていましたら、人物は動いていました。動画です。
視野が狭くなったジェシカ・ハウスナー監督…
それにしても、ジェシカ・ハウスナー監督はこの単純なプロットで何をしようとしたのでしょう。
「リトル・ジョー」ではジェシカ・ハウスナー監督が毛色の違った映画を撮ったと書きましたが、どうやらそうでななく、映画のテイストは随分違いますが、やっていることは「ルルドの泉で」でも同じで、「信じる」ことで何かが変わるわけですし、「リトル・ジョー」では信じることは汚染ということに置き換えられており、そしてこの「クラブゼロ」では信じさせる主体、つまりは神的存在が登場するという、うがった見方をすればすべてつながった物語にも見えてきます。
そこまで計算されてつくられているわけではないとは思いますが、ジェシカ・ハウスナー監督には、人が何かを信じることによって社会の変化が起きるといったイメージがあるのかもしれません。
しかしながら、率直に言って映画としては面白くありません。
寓話というのは予測できない、あるいは一般的価値観から遠く離れた価値観で描かれなければ寓話にならないわけで、この「クラブゼロ」で描かれていることは、今や多くの人が目の間で起きつつあることであり、それゆえ、それが現実となったらどうしようと恐れていることでもあります。
そんなものをあえて仰々しく描いたとしてもはっとすることはないとは思います。