寛容性の最大の敵はローレンス…
今年2025年のアカデミー脚色賞を受賞した「教皇選挙」です。エドワード・ベルガー監督は「西部戦線異状なし」で紹介されることが多いようですが、私が見ている作品で言えば「ぼくらの家路」の監督です。

ほぼ原作のプロット通り…
脚色賞ですので原作があるわけでこれです。
作者はロバート・ハリスさん、ググって先にヒットする1948年生まれの方ではなく1957年生まれの方です。
イギリスの作家で歴史小説が多いようです。そのせいか、何作かが映画化されています。私が見ている映画ではロマン・ポランスキー監督の「ゴーストライター」「オフィサー・アンド・スパイ」、他にケイト・ウィンスレットさん主演の「エニグマ」もありますし、テレビドラマや配信などたくさんあります。この「教皇選挙 Conclave」は2016年発表の小説です。
ロバート・ハリスさんはポランスキー監督とは協力関係にあるらしく、ポランスキー監督の未成年者への性暴行犯罪が明らかになった後も協力関係を変えないのかと尋ねられた際、なぜ変えなくちゃいけないかと反論しているようです(INDEPENDENT2018.6.24)。リンク先の記事を読みますと擁護しているニュアンスです。んー…。
脚色賞の対象となる脚本はピーター・ストローハン(ピーター・ストラウガン)さんです。「アメリカン・アニマルズ」「裏切りのサーカス」などに名前が出ています。
ウィキペディアに「Conclave (novel)」の項目がありましたので読んでみましたら映画はほぼ原作のプロット通りです。主人公である首席枢機卿ロメリ(Jacopo Lomeli)が映画ではローレンスになっています。他の枢機卿の名前は映画も同じです。
聖なる世界の俗なる人間ども…
物語はタイトルの「教皇選挙」そのもので、前教皇が亡くなり新しい教皇を選ぶ教皇選挙コンクラーベを世俗世界の権力闘争のように描いています。逆に言えば、カトリック教会も世俗と同じだと言っているわけです。
前教皇が急死します。不審な死ということではなく、後に明らかになる2、3のことを謎としておくための設定です。そのひとつが前教皇と最後に会っていたのが有力候補の一人であるトランブレ(ジョン・リスゴー)ということなんですが、映画冒頭はこのトランブレが前教皇の死を首席枢機卿であるローレンス(レイフ・ファインズ)に直接知らせなかったというシーンで入っており、最初からこいつ怪しいぞと見せています。クライマックスに持っていくための重要な人物になっています。
映画始まってしばらくは人物と名前が一致せずややわかりにくいのですが、気にせず見ていきますとやがて数人の枢機卿が有力候補であることがわかってきます。
教会内にはリベラル改革をめぐる対立があるらしく、前教皇は改革派であり、ローレンスも改革派です。ただ、ローレンスは自分は教皇の器ではないと言っており、ベリーニ(スタンリー・トゥッチ)を推しています。すでに書いたトランブレも改革派のようですが野心家であるがゆえにローレンスは嫌っています。対する反リベラルの筆頭はテデスコ(セルジオ・カステリット)です。また、立ち位置不明のままスキャンダル担当にされてしまう黒人のアデイエミ(ルシアン・ムサマティ)がいます。
有力候補はこのベリーニ、トランブレ、テデスコ、アデイエミの4人なんですが、前教皇が生前に枢機卿に任命していたという人物ベニテス(カルロス・ディエス)がコンクラーベ直前に登場してきます。意味ありげな登場のさせ方である上に、任命の事実さえ誰にも知られていないにも関わらずその後の扱いが大きいわけですので何かあるなという人物ではあります。
確信の罠に落ちるローレンス…
ということで、全世界から招集された100人を超える枢機卿によりコンクラーベが始まります。コンクラーベは2/3の得票で決し、決まるまで何度もやり直し、その間枢機卿たちは外部との接触を禁じられてスマホなど通信機器も使えないとのことです。過去には5日を要したこともあるそうです。
で、ありきたりの見方ではつまらないですので(笑)、以下、ちょっと穿った見方をしてみます。
ローレンスです。この映画、実は有力候補たちの人物像をほとんど描いてません。投票が1回、2回と行われるたびに一人ずつ脱落していくわけですが、映画が追っているのはあくまでもローレンスであり有力候補たちではありません。そのローレンスの行動を見ていますとローレンスが自分の考えを実現するために暗躍しているようにみえてくるのです。
アデイエミのスキャンダルにしても、その相手である修道女に告解まで迫って(強要?…)真相を聞き出し、まるで自らに決定権があるかのようにアデイエミにあなたに資格はないなんて辞退(じゃなく公表したってことかな?…)させますし、トランブレにはそのアデイエミ追い落としの策略を図ったのはお前だろとこれまた辞退させようとし、それを拒否されますと、自ら規律を破り封印された前教皇の部屋に入ってトランブレの陰謀の証拠を見つけようとします。
この映画の中で一番悪に手を染めているのはローレンスじゃないかと思えてきます。一般社会でもこういう人物が一番危ないです。アデイエミもトランブレも本人に問題があった(というかそのように書かれている…)わけですからそうは見えないかも知れませんが、ローレンスは自分が正しいと思い込んで善悪の判断ができなくなっています。善を為しているようにみえるのはそのように物語られているからです。
ローレンスはコンクラーベに入る前にお決まりの説教(という意味じゃないかもしれない…)をした後に「確信(Certainty)は団結の最大の敵だ」とか「確信は寛容の最大の敵だ」と言い、それは明らかに反リベラル強硬派であるテデスコへの当てつけなんですが、よくよく映画を見てみれば、最も自らに間違いがない(Certainty)と思い込んでいるのはローレンスです。
ローレンスが何を正しいと信じているかといいますとリベラル改革です。ローレンスは端から反リベラル強硬派のテデスコしか見ていません。投票が1回目、2回目と進み、アデイエミが票を伸ばしていっているのにローレンスにはアデイエミのことなど頭になく、とにかくテデスコを追い落としベリーニの票を伸ばそうと数人で集まり作戦会議までしています。これはかなりおかしなことです。
挙げ句の果に、ローレンスは票の伸びないベリーニにお前が教皇になれと言われて、教皇名はヨハネ(だったか…)にするとまで答えています。それにベニテスからはあなたが最も教皇にふさわしいと言われて苦渋の表情を浮かべながらもついに自ら教皇になる決断をします。
このオチはいただけない…
私はこの映画なら教皇ヨハネ何世誕生というのが一番もやもやするいいオチじゃないかとは思いますが、映画はそうはならずにイスラム過激派の自爆テロが発生しコンクラーベ会場の教会の窓が吹っ飛びます。
やっとテデスコの登場です。テデスコはこれがリベラル改革を進めてきた結果だ、われわれはムスリムの存在を認めているのにあいつらはわれわれを認めない、今こそ戦うときだ! とまるで十字軍の出陣式のような演説をします。
突如ベニテスが立ち上がります。あなたは戦争を知らない、戦うというが一体何と戦うのか、私はアフガニスタンやどこどこ(忘れた…)で布教活動をしてきたが戦争は何も生み出さない(ちょっと違うかも…)と静かに語ります。
率直なところ、この演説じゃ皆の賛同を得るのは無理じゃないかと思いますが、とにかく、この演説でベニテスが新教皇に選ばれます。
しかし、これで終わりではなく、実はベニテスは子宮を持っているインターセックスなんです。前教皇にそのことを告げて摘出手術を受けるつもりでしたが、神が与えた身体のまま生きることを選択したということです。
このオチはちょっとばかりあざとすぎます。ウケを狙いすぎです。
アメリカではトランプ政権になってから DEI 政策を廃止したり、性別は男と女の2つだけだ(There are only two genders in the United States, Male and Female.)との大統領令にサインしたりしています。第一期トランプ政権を見てそうした予感でもしたんでしょうか、かなり突っ込んだエンディングではあります。
その点ではまったく異議はありませんが、ただ、私はこういう映画を見ますと、そんな荒唐無稽なオチのことよりもローレンスという人物に期待しているかのような物語のつくりに(していない?…)危険な匂いを感じます。教皇を誰もがその名を知る最も有名な人物といってみたり、枢機卿にアジア系を入れることさえ思いつかないわけです。居並んだ前列に一人だけそれらしい人が座っているシーンがありましたがそれだけです。
それにベニテスは原作ではフィリピン人ですが映画ではメキシコ人になっています。白人系ではなく先住民系ですのでなんとも言えませんが、なぜ変更したんだろうとは思います。
クリスチャンでもないのにクリスマスだといって騒いでみたりする国の住人がこんなことを言っても始まらないとは思いますが…。