ヴィム・ヴェンダース監督と役所広司さんでなければ撮れなかったでしょう…
劇場公開日の12月22日の朝刊に見開きで広告が出ていてびっくりしました。
マーケティング戦略…
新聞の広告はこれです。
すごいなあ。配給会社も命運をかけてますね、なんて思っていましたら、どうやら違うようです。
そもそもこの映画の発案は映画業界からのものではなく、THE TOKYO TOILET (TTT)という渋谷区内に公共トイレを設置するプロジェクトのアピールを目的とした宣伝業界からのものだったようです。
ヴィム・ヴェンダース監督とともに脚本に名を連ねている高崎卓馬さんは、ウィキペディアによれば CMディレクターの方で現在も電通所属です。また、製作とクレジットされているのはユニクロの柳井康治さんです。柳井さんは TTT の発案者らしく、事業そのものへも出資されているようです。
ということから考えますと、新聞見開きの全面広告もマーケティングを考えたものと思われます。この映画に興味を持つのは高齢者であり、その主な情報収集先は新聞であるというマーケティング戦略にもとづいたものということです。
そう考えればウェブサイトの先進性にも納得がいきます。視覚性に重点を置いた凝りに凝ったつくりは若年層向けでしょう。ただ、正直なところ、かなり鬱陶しいです(笑)。
どういう経緯でヴィム・ヴェンダース監督に話がいったかまではわかりませんが、ベンダース監督によれば、当初はプロジェクトのアピールのための短編を依頼されたらしく、それを、それではもったいない、長編にしようと逆提案したということのようです。
ヴィム・ヴェンダース監督に声を掛けたことが大正解でした。この映画、プロジェクトのアピールという意図も残しつつ、映画としても完成度の高いものになっています。
役所広司という俳優…
主演の役所広司さんもエグゼクティブプロデューサーとクレジットされています。早い段階から映画製作に関わってきたということだと思います。
この映画は役所広司さんなくしてはここまでのものにはならなかった映画です。
トイレ清掃員の生活を数日繰り返して撮っているだけです。身も蓋もない言い方ですが、それが映画になるんです。
平山(役所広司)は、スカイツリー近くの東京下町(押上らしい…)の安アパートで一人暮らしです。近所の人が道路を掃除する竹箒のサッ、サッ、サッという音とともに目覚め、歯を磨き、植木鉢の草木に水をやり、つなぎのユニフォームを着てアパートを出ます。ドアを開け、朝日を浴びたその顔に不安や迷いや恐れはなく、今ここに生きている自分をしっかり受け止めている充実感と、そして平山としての実在感があります。
車で首都高を走り渋谷区の公共トイレの清掃に向かいます。車ではカセットデッキで1960年代から1970年代のヒット曲を聴いています。
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という、平山の日々が数日描かれます。ときにちょっとしたことで平山の心にも多少の波風が立ちますが、それでも平山の一日は続きます。傍から見れば毎日同じように見えても、平山にはその日、その日が違って見えているということでしょう。
昼には決まった場所でサンドイッチを食べ、おもむろにフィルムカメラを取り出して無造作に木漏れ日を撮っています。仕事が終われば銭湯に向かい、行きつけの居酒屋(浅草地下商店街…)でいっぱい飲み、そして夜は古本屋で購入した文庫本を読み、眠くなれば自然と横になって眠っていきます。
そして、時には、これも行きつけの居酒屋風バーに行き、ママ(石川さゆり)の歌にしみじみと感じ入ります。また、撮り終えた写真は行きつけの写真店に行けば、何も言わずとも現像済みの写真と新しいフィルムが出てきます。受け取った写真は気に入れば月毎の缶に入れて保存し、うまく撮れていなければ破り捨てています。
そんな日々とちょっとした心の揺れが描かれていく映画です。そしてラストシーン、その日も仕事に向かう平山の顔には時に朝日がさして赤く染まり、その顔には今生きている実感から溢れる笑顔が見えています。
主役を張れる俳優には、スターとアクターのふたつのタイプがあると思います。簡単に言えば、スターは何を演じてもその人だけれども華があり人が呼べる俳優、アクターは役の人物になれる俳優ということです。その意味で言えば、役所広司さんは後者、それもとても優れたアクターだと言えます。
ドイツ人監督が撮った映画と思いますか…
ヴィム・ヴェンダース監督は、東京映画祭での舞台挨拶で、この映画を撮ったのがドイツ人監督だと思うかと話していました。文脈的には、自分の中に日本の心( japanese soul … )があることを発見したという意味ではありますが、単純に文面のみの意味合いで言えば、今こうした映画を撮れる監督が日本にいるのだろうかと思います。
今の日本映画って、プロット全盛ですよね。映画研究者でもありませんので、単にそんな気がするという程度のことですが、この映画のような企画が日本の映画界で通るんだろうかと思います。もちろんどんな映画でもプロットは必要でしょうが、あまりにもステレオタイプに頼った物語が多いのではないかと感じます。
この映画のように、物語を語らずとも物語を生み出す映画があってもいいように思います。
この映画は平山の過去を語ろうとはしません。平山は本を読みながら寝落ちするように眠っていきます。そして、あたかも夢であるかのように木漏れ日にその日の出来事のワンシーンのようなぼんやりした映像が挿入されます。
これが今の多くの日本映画であれば、その夢のような映像が平山の過去と結びついており、最後にはその過去がなんであるかが明かされることになると思います。でも、ヴェンダース監督はそんな〇〇いことはしません(笑)。
姪のニコ(中野有紗)を登場させても平山に家出の理由を聞かせることもしません。妹のケイコ(麻生祐未)を登場させ、別れ際平山に抱擁させるも、ふたりにそれ以上のことを語らせることはしません。それでも平山の過去がみえてきます。
アヤ(アオイヤマダ)にパティ・スミス「Redondo Beach」(だったと思う…)のカセットテープを持って行かせ、返しに来たときに平山の頬にキスさせて去らさせるだけでアヤの人生がみえてきます。
石川さゆりさんの登場にはちょっと驚きました。それに歌ってくれてもいました。「朝日のあたる家」の演歌バージョン(笑)です。伴奏はあがた森魚さんです。これらはベンダース監督のものではないと思いますので誰の発想なんでしょう? 元夫役の三浦友和さんの登場や影踏みもおそらく日本側の発想でしょう。石川さゆりさんの出演なんかは映画業界からは生まれない発想かも知れませんね。
私の中では、このところのヴィム・ヴェンダース監督は「Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち」や「もしも建物が話せたら」といったドキュメンタリーのほうがいいという認識でしたが、久々にドラマでも完成度の高い映画見せていただきました。あらためて思い返してみれば、この映画もドキュメンタリーのようにもみえてきます。