いわゆる「余命何ヶ月」ものなんですが、ちょっとアプローチが違った映画でした。監督はエマニュエル・ベルコさん、俳優としては「モン・ロワ 愛を巡るそれぞれの理由」など見ていますが、監督作品は初めてです。見る者の集中力を途切れさせないいい映画でした。
主役はドクター・エデ(ガブリエル・サラ博士)
映画の基本的な軸は、ステージ4の膵臓がんを宣告された39歳のバンジャマン(ブノワ・マジメル)の、息を引き取るまでの苦悶の1年間を描いていくことであり、その苦悶には母親のクリスタル(カトリーヌ・ドヌーヴ)との関係が大きく関わっているというものです。
ですので、これまでも多くの映画で描かれてきている自らの死期を知った者が残りの人生をどう生きるかという物語ではあるのですが、この映画のアプローチがちょっと違っているのは、描き方の比重を医療従事者側の終末期医療というものに重きをおいている点です。
バンジャマンの主治医となるドクター・エデを演じているのはガブリエル・サラ博士という現役の医師であり、「ニューヨークのマウント・サイナイ・ウェスト病院医療部の上級指導医。化学療法病棟の医長ならびに患者サービス部門の顧問を務めている(公式サイト)」方です。
マウント・サイナイでググっていましたら、映画のシーンと同じようにサラ博士と医療従事者たちが歌っている画像が掲載された記事がありました。
また、サラ博士は、友人の妻の死を偲んでその友人とともに「Helen Sawaya Fund」という基金を立ち上げており、音楽療法(など)でがん患者の苦痛を和らげるための活動をされているようです。これについても映画の中にも取り入れられています。
この映画はそうしたサラ博士の終末期医療に対する考え方にもとづいてつくられている映画です。そのサラ博士とベルコ監督との出会いは、ベルコ監督の「太陽のめざめ」のニューヨーク上映の際にサラ博士から声をかけられ、その時構想中だったこの映画のアイデアにぴったりはまったということらしいです。
終末期医療という視点からの映画
映画は医師や看護師たち医療従事者のミーティングから始まります。看護師がアップ映像で語るカットから始まりますので、ん?なんだこれ、と惹きつけられます。
その看護師は、担当のがん患者の最期にその妻が立ち会うことができなかったことに自分の責任を感じています。その妻はずっと夫のそばに付き添っていたのですが、たまたまいっとき帰宅した時に夫が息を引きを引き取ってしまったのです。患者の最期が近いことに気づかなかった自分を責めているということです。エデ医師(サラ博士)は、自分を責めることはない、死期は患者が自ら決めたことだ、患者はすでに妻に別れを告げており、一人で逝くことを選んだのだ、とその看護師や参加者たちに語りかけます。
続いて上にリンクしたマウント・サイナイ内の記事のように皆で歌うシーンになります。エデ医師も記事のサラ博士のようにギターを弾き歌います。映画ですので看護師や医師たちも楽しそうにノリノリです。
このミーティングはもうワンシーンあり、そのシーンでは看護師が患者の最期に立ち会い泣いてしまったと語ります。ここでもエデ医師は、泣いていいのだ、正直な気持ちで接すればいい(違っているかも)と優しく語りかけます。
こうしたミーティングは医療従事者のストレスを取り除くための精神的なケアであり、ミーティングの後に皆で歌うという行為も患者への音楽療法と同じような効果があるということのようです。
映画の中で描かれる患者へのヘルスケアとしては、タンゴダンスのシーンがあります。突然病院の廊下を女性のタンゴダンサーがハイヒールの靴で駆けていきますので何事?と思いましたら、患者たちの前で踊り始めていました。実際にやっていることかどうかはわかりませんが、この映画は人と人の接触(抱擁や手と手など…)がかなり強調されている映画で、このダンスもそのひとつですし、バンジャマン(演劇学校の教師なので…)の演技指導のシーンでも男女の愛や別れの演技実習に激しい抱擁が使われています。
そうした映画の運びはとてもうまいですし、モンタージュ(編集)がとてもいいです。細かいカットをつないでリズムを作っていくオーソドクスな手法だとは思いますが、見ていて集中力が途切れません。
最後に交わすべき5つの言葉
バンジャマンとクリスタルは、バンジャマンのがんがすでに末期のものであることを知ってエデ医師のもとにやってきます。エデ医師ははっきりとバンジャマンのがんには治療の方法はない、しかし、良くすることはできないが悪くなることを遅らせる助力はできると言い、それが受け入れられるのであればその日までともに歩もう(というようなこと…)と言います。
二人は現実が受け入れられません。バンジャマンはまだ自分は何も成し遂げていないと言い、クリスタルはあきらめてはいけない、最後まで生きる望みを捨ててはいけないと考えています。クリスタルのすすめで他の療法を試してはみますが、結局エデ医師に頼ることになります。エデ医師は余命の予想を聞く準備ができているのなら統計上のデータを教えると言い、小さくうなずくバンジャマンに1年から半年だと告げます。
そしてバンジャマンの闘病生活が始まります。闘病じゃないですね、エデ医師は闘うな、受け入れろと言っています。エデ医師の終末期医療の考え方は、患者が心残りなくその時を迎えられるようサポートするというもので、何事も無理強いはしない、隠しごとなく正直に対するということです。
ああそういう考えもありだなと思ったのは、死を迎える者にいちばんやさしいあり方は、あなたは自分の人生を生ききったんだからもう逝っていいんだよと認めてやることだと言います。かなり宗教的ですし、人それぞれだとは思いますが、確かにこういう考え方もなるほどとは思います。
そのために最後にかける(交わすかな)べき5つの言葉ということも言われています。(私を)赦してほしい、(あなたを)赦す、ありがとう、愛している、さようなら、だった思います。
共依存のバンジャマンとクリスタル
で、バンジャマンとクリスタルにその5つの言葉が交わせるかということなんですが、映画は終末期医療とバンジャマンの苦悩を描くことに力が入ってしまい、その苦悩のもとが何なのかということがあまりうまく描けていません。
まず、この母子の関係はかなり共依存関係です。バンジャマンはマザコン気味ですし、クリスタルは子離れができていません。そういうことからなのでしょう、20年前、バンジャマンには恋人がいてその間に子どもができたようですが、クリスタルが無理やり別れさせたらしいのです。これもあまり詳しく描かれるわけではなく、二人が二言三言言い合うだけで、その時クリスタルはあなたを失いたくなかったからと言っていました。
息子が恋人と暮らし子どもができたことで息子を失うと思ってしまうのであればかなり病的でしょう。でも映画はさらりと流していますし、クリスタルにもそうした執拗さみたいなものは感じられません。カトリーヌ・ドヌーヴさんにはこういう役はあまりあいません。現在のドヌーヴさんは、その存在だけで重しがきくようなゴッドマザー的な存在ですので、この映画のブノワ・マジメルさんの濃厚な演技に相対して正面からぶつからなくてはいけないような役は似つかわしくないです。また、悲しみでおろおろするような役もあいません。
バンジャマンの心残りはこの息子のことと仕事の上で何も成し遂げていないという後悔です。仕事は演劇学校の教師をやっており、そのシーンが3度ほど入ります。すでに書きましたようにこの演技実習のシーンでは生徒たちが男女の愛と別れを演じるのですが、バンジャマンを演じるマジメルさんもそうですが、ベルコ監督にも相当力が入っている感じがします。
愛と別れは生と死を分けるそのものです。シーンとしても見応えがありました。
息子の件はかなり中途半端な印象です。そもそも設定に無理があります。母親が別れさせ、それに従ったということもあまり現実感がありませんし、それなのにクリスタルがその女性の電話番号を知っていることも、さらに電話(留守電へのメッセージだと思う)するというのも説得力がありません。その女性がどういう人物かも何も語られませんし、それなのに海辺(オーストラリア?)の住まいのワンシーンだけが挿入されたり、認知せずに放ってあるわけですから交流などまるでなかったと考えられるのに息子が会いに来るというのも不自然です。母親がバンジャマンのことを息子に話しているとは考えられず、それなのに息子の理性的は行動もあまりにもつくられすぎています。
ベルコ監督のインタビューを読みますとメロドラマを撮りたかったようですが、結果としては宗教的終末期医療ドラマになってしまったようです。
ただ、それがよい結果につながっていると思います。こうした「余命何ヶ月」ものなのに直接的な別れのシーンで泣かせようとの意図がないことはとても好感が持てますし、映画そのものとしては見ごたえもあり、最後まで集中力が途切れず見られた映画です。