所詮、愛もセックスも不可解で曖昧なもの…
今年2025年のベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞している映画が地味な宣伝のまま公開されています。三部作と位置づけられているらしく、他の「LOVE」「SEX」と合わせて「オスロ、3つの愛の風景」と括られたその一作「DREAMS」です。

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ネタバレあらすじ
17歳ヨハンネの初恋
かなりユニークなつくりになっています。
17歳の高校生ヨハンネのモノローグで入り、冒頭、ジャニーヌ・ボワサール(Janine Boissard)の「家族の精神(L’esprit de famille)」を読んでいるのでそれに倣って自らの初恋を書き記すことにしたと語ります。映画1/3くらいまではそのままヨハンネがその手記を読むスタイルで進みます。画はその内容に合わせたものになっているものの画の中の人物が話すことはほとんどありません(だったと思う…)。
ドラマ映画ではあまり取らない手法だと思いますが、意外にもこれがうまくいっています。ノルウェイ語ですので音としてしか聞けていませんがテンポもよく映像ともうまく合っているように感じます。字幕もよかったのでしょう、言葉の分量はかなりのものですが苦になりません。ときに入るトランペットをフィーチャーした音楽がサスペンス風でもあり、この恋、どう展開するんだろうと興味をそそります。
とは言っても、この映画一筋縄でいくような映画ではありません。モノローグとはいえ手記ですので、これは本当にヨハンネの思いそのものなんだろうかとか、さらには創作ではないのだろうかとの疑念も湧いていきます。その意味では見るものを混乱させる映画です。
ヨハンネ(エラ・オーヴァービー)は新しくやってきたフランス語教師ヨハンナ(セロメ・エムネトゥ)に一目惚れします。教室ではヨハンナしか見えなくなり、時に目が合えば胸は高鳴り、自分が特別に意識されていると思い込み、ヨハンナの肌に直接触れているセーターに愛着を感じ、友人と話をしていてもヨハンナのことを考えて上の空、姿が見えなければ用もなく学内を探して歩きまわるという、いわゆる熱に浮かされた状態が語られていきます。
そしてついに抑制が効かなくなり、ヨハンネはヨハンナのアパートメントを訪ねます。街をさまようように歩くヨハンネのシーンがかなり長めにあり、画に絡みつくような音楽が入っています。ヨハンネは住人の後についてオートロックをすり抜け、ドアの前に立ちます。ベルを鳴らすヨハンネ、ドアが開き、ヨハンネを見つめるヨハンナの慈愛の眼差し、その胸に飛び込むヨハンネ、強く抱きしめるヨハンナ…。
この手記、怪しいぞ、と思った瞬間です(笑)。
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母の混乱、祖母の驚き、そして失恋
映画序盤は、といった手法で進みます。そしてその後の中盤は初恋の結末を曖昧にしたまま、リアルな会話劇に移行していきます。
ヨハンネは手記を誰かに読んでほしいとの思いで祖母カリンに見せます。カリンは出版経験もある詩人です。カリンは感想を尋ねるヨハンネに曖昧な返事を返すだけで、その手記を自分の娘であるヨハンネの母クリスティンに見せます。
ヨハンネは母親には見せないでと言ってはいますが、母親に渡ることはわかっているわけですから、この段階で映画の主題は、初恋の行方ではなくヨハンネの初恋、というよりも手記が祖母と母にどう波及していくかに移っていきます。
手記を読んだ母クリスティンはその中に性的行為の記述(最後までわからない…)があることから、これは虐待だと憤慨し、告訴まで言い始めます。クリスティンとカリンが議論するかのような台詞劇になります。混乱するクリスティンに対して、カリンは手記そのものの出来のよさとヨハンネの才能に驚いているようです。
カリン担当の編集者に手記を見せることになります(だったと思う…)。
字幕が原語のニュアンスをうまく表現できていたのであればですが、クリスティンからは虐待といった言葉まで飛び出していますし、二人の話からは手記にはかなり親密な性的表現が記されているようにもみえます。実際のところ手記にどのように書かれているかわかりませんが、それがどうであれ、二人はヨハンネの性的な記述を含む欲情的に記された手記を読むことで、それぞれ自分自身の過去を振り返ることになっていきます。これが映画終盤のひとつのポイントになります。
それは後回しにするとして、ヨハンネの初恋を解決させておかなくてはいけません。もちろん同じようにモノローグで描かれています。
ヨハンネは編み物を習いたいと申し出て受け入れられ頻繁にアパートメントに通うことになります。それらのシーンはキービジュアルのように近しい二人であるけれども決してセクシュアルとは思えない画なのに、そこにヨハンネのセクシュアルなモノローグが当てられています。
結局、初恋は失恋に終わります。しばらく会えなくなった後、ヨハンネはやっとの思いで会えると向かったヨハンナのアパートメントで、ヨハンナが別の女性と親しくする様子を目撃するのです。
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祖母と母のフェミニズム論争
映画終盤はヨハンネの手記を出版するかどうかに話の軸が移り、いくつかの組み合わせの一対一の会話劇になります。
カリンと編集者のパートでは手記の話よりもカリンが自分自身を語ります。編集者からはあなたもたくさんの男たちと寝たでしょと言われるカリンですが、それを思い出し、今は独り身であることがこたえるのか、最期は誰かに抱かれて死にたいとこぼします。ヨハンネの手記が老齢のカリンの心にポッカリと穴を開けてしまいました。最初に手記を読んだとき、カリンが何も言えなかったのはそれだけヨハンネの手記に心を動かされていたのかも知れません。
続いて、森を散歩するカリンとクリスティン、当初は憤慨していたクリスティンがヨハンネの才能を評価する立場に変わっています。クリスティンにはヨハンネの相手が女性であることが気になっているのかも知れません。まだ10代だった頃に好きだった「フラッシュダンス」に触れ、女性が自分の道を開いていくいい映画だと思っていたのにと語り始め、カリンに対して、その時あなたはあれは男に認められる女の話でフェミニズム的に最悪の映画だと酷評したと語ります。
やや唐突な言い合いですが、この映画が4人の女性の話としてつくられていることやヨハンネの初恋の相手が女性であることを考えれば、ダーグ・ヨハン・ハウゲルード監督にフェミニズムに対するなんらかの意識があることは間違いないでしょう。
ところで、この二人の森の散歩のシーンではその途中でブロンテ姉妹と名乗る3人の女性と出会い、その後真っ暗になってしまった森でも再度出会います。あれは何なんでしょうね。まったくわかりませんが、適当なことを言えば、わかりやすくしたくない作家としてのおふざけかも知れません。あるいはこれもフェミニズムへの何らかの言及なんでしょうか。
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手記の出版と男性セラピスト
結局、手記は出版されることになり、ヨハンナの同意を取ろうということでクリスティンがヨハンナに会うことになります。ここはかなり緊迫感のある会話劇になっています。いつクリスティンが爆発するんだろうと見ていました(笑)。
手記は事前に送られて読んでいるということでしょう。ヨハンナは告訴を恐れています。クリスティンがそのつもりはないと否定しますと、ヨハンナは生徒と個人的な関係を持ったことは行き過ぎた行為だったが恋愛感情はまったくなかったと言い、ヨハンネのことをかなり冷たく突き放した表現で語ります。
この時のクリスティンの表情がむちゃくちゃいいんです。何も言いませんが何カットもクローズアップで切り返されます。娘のことを思い我慢しているようでもあり、ヨハンナがどういう人物かと見定めようとしているようでもあり、手記のことを考えているようでもあり、あるいは自分の何かを考えているのかも知れません。とにかく複雑で深い表情をしています。
クリスティンが、手記にあるヨハンネがヨハンナの腕に優しく触れた行為に話を振りますと、ヨハンナは自分は緊張するとお祈りを唱える癖があると言います。そして、この場を逃れるために事前に頼んでおいたのでしょう、親密な女性がやってきて二人で去っていきます。
結局、その時、ヨハンナも欲望をコントロールしようと戦っていたということです。
手記は出版されます。そして、その理由ははっきりしませんが(見落としているかも…)ヨハンネがセラピーを受けるシーンになります。このシーンがよくわかりません。セラピストの男性の態度がかなり辛辣なんです。ヨハンネは気づかぬうちに90分も話していたと言っています。
セラピストは早く帰ってくれみたいな感じでした。この手の話を鬱陶しがる男性(がいるとすれば…)を象徴しているんでしょうか。それはないか(笑)。
そしてエンディングは、セラピストの部屋を出たヨハンネは、偶然、初恋が失恋に終わることになったヨハンナの相手の女性と出会い、お茶しないの誘いに応じて二人で歩いていきます。その時、その女性も他のセラピストのセラピーを受けに来ていたわけです。また、その時、ヨハンネは付き合っている男性とセラピーが終わったあとの約束をしているわけです。
なるほどと思えるエンディングでした。愛やセックスへの問いかけを軽々と飛び越えてしまうZ世代でした。
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感想、考察:最期は誰かに抱かれて死にたい
面白い映画でした。それだけに今の日本では売れにくいかも知れませんね。
ダーグ・ヨハン・ハウゲルード監督は小説家でもあります。さもありなんです。字幕ですので本当のところはわかりませんが、こうした言葉主体の映画で評価が高いわけですから台詞がいいのでしょう。
映画監督としても片手間というわけではなく、1998年頃から短編をいろいろ撮っているようで、長編としてはデビュー作となる2012年の「I Belong」でノルウェーのアカデミー賞と呼ばれるアマンダ賞で4部門受賞などと評価の高い監督のようです。1964年生まれ、現在60歳です。
言葉だけではなく映像的にも音楽的にもセンスがとてもいいです。モノローグに当てている映像もしっかり見られますし、音楽の使い方もうまいです。
ただ映画のテーマとしてはとらえどころがなくあまり残るものは感じません。どこか高みから見ているようなところがあり、映画全体として伝わってくるものがないという感じです。
ただこれも批判というわけではありません。結局のところ、愛もセックスもどこまでいっても個人的なものですのでどうこう語れるものではなく曖昧なものであり、その曖昧さを、最後まで内容がわからないヨハンネの手記という形で示しているということだと思います。
そしてもうひとつ、この映画を見て感じたことがあります。この監督、どういう位置づけにあるのかはわかりませんが、「神」という存在、あるいは「信仰」と言ったほうがいいかも知れませんが、そうしたものが意識されているように感じます。
丘の上に登るための長い階段が何度か出てきます。冒頭の画も霧の中の階段だと思いますし、その後もどこかで使われていますし(カリンとクリスティンか編集者が歩いて登るシーンだったか…)、また、カリンが言う、最期は誰かに抱かれて死にたいとの言葉の象徴的なシーンとして、大勢のダンサーが競い合うようにその階段を登っていくダンスがあります。カリンもその中のひとりとして必死に登っていきます。
こんな異質なシーンをわざわざ入れているわけですから相当意識されたシーンであり、ダンスであると思います。
あえて言えば、「愛」とは「最期は誰かに抱かれて死にたい」と思う決して叶えられないものかも知れません。