これが今のイギリスのリアルか!? 2016年カンヌ、パルム・ドール
公式サイトに、ケン・ローチ監督は「前作の『ジミー、野を駆ける伝説』を最後に映画界からの引退を表明していた」とありますが、引退? 知りませんでした。
その程度の?と言われそうですが、実はケン・ローチ監督のファンでして、あの画からにじみ出るやさしさにどの映画を見ても涙がこぼれてしまいます。
で、その「引退」宣言を撤回してまで撮ったという「わたしは、ダニエル・ブレイク」、確かに、ああなるほどと納得の映画でした。
監督:ケン・ローチ
イギリス北東部ニューカッスル、59歳のダニエル・ブレイクは心臓を患い医者から仕事を止められる。国の援助を受けようとするが、複雑な制度が立ちふさがり援助を受けることが出来ない。悪戦苦闘するダニエルだが、シングルマザーのケイティと二人の子供の家族を助けたことから交流が生まれる。しかし、厳しい現実が彼らを次第に追いつめていく。(公式サイト)
何に納得したかといいますと、ケン・ローチ監督、むちゃくちゃ怒ってますね、ということです。
映画はとにかく直接的で、個人の尊厳を踏みにじる社会構造、具体的には国のシステムなんですが、病のために仕事ができなくなったダニエル・ブレイク(デイヴ・ジョーンズ)やシングルマザーのケイティ(ヘイリー・スクワイヤーズ)が、そうした個人の力ではどうにもならない強大な力に押し潰されていく様を描いています。
弱者や労働者の視点で描くと言われるケン・ローチ監督ですが、私の見ている映画ではこれほど直接的に抗議の意志が現れた映画は知りません。
それだけもう我慢できないぞということなのかも知れません。
その意志は、ラスト、ケイティが読み上げる亡くなったダニエルが残したメッセージにつきると思いますが、むしろケン・ローチ監督らしさは、ちょうど中頃、フードバンクでケイティがあまりの空腹にその場で缶詰を開けて食べてしまう場面の描き方にあると思います。
ケイティは二人の子どもを抱えるシングルマザー、ロンドンでは(多分)家賃を払えず住まいを追い出され、2年ほどホームレスの保護施設(だったと思う)に入っていたのですが子どもが精神的にまいり、紹介されて引っ越したのがロンドンから400km離れたニューカッスル、間違っているかもしれませんが、そこは空き部屋があり、その分寝室税(bedroom tax)として生活保護費が減額され、電気代も払えないという生活状態です。
そして生活保護でしょうか、何らかの受給を受けようとしますが、決められた時間にやむを得ず遅刻してしまいその資格をなくしてしまいます。
結局食うにも困ることになるのですが、泣き言を言うでもなく、子供のためは当然としても、自分の食事は抜いても親切にしてくれたダニエルに食事を提供したりします。
で結局、上に書いたフードセンターのシーンとなるのですが、映画はそうしたことに対して同情的な視点ではなくただその事実をただやさしく見つめるということに徹しています。
それは、同情では何も解決しないということはもとより、ケイティが二人の子を抱えたシングルマザーであるそのことを、ある種個人の責任ということはあっても、一旦社会の中に置き、同情ではなくただそのこととしてやさしく見つめることで、ある種普遍的な生きることの意味みたいなこととして見えてくるのだと思います。
こういうシーンは普通作り物くさくなりがちなんですが、まったくそうしたところはなく実にリアルであり、それでいて嫌味もなく、見る者をその場のダニエルやフードバンクのスタッフと同じ地平に立たせてくれるのです。
人の尊厳まで奪ってしまう社会とは一体何なのだということです。
こういうシーンがケン・ローチ監督のやさしさの現れだと思います。
問題は実に切実で怒りが爆発しそうな内容なんですが、それをただ怒りだけではない映画とさせているのは、ダニエルのデイヴ・ジョーンズさんのキャラクターです。コメディアンとのことですが、この人なくしてこの映画の雰囲気は生れないでしょう。
というより、俳優に合わせて映画を撮ると言われるケン・ローチ監督ですから、この組み合わせだから生れた映画なんだろうと思います。
それにしても、この映画、まったく希望がありません。
ケイティが読み上げるダニエルのメッセージの最後には、確かかすかな希望を見いだせるような言葉があったように思いますが、でも現実には、ダニエルは怒りを堪えたまま亡くなってしまいますし、ケイティにしても、映画は語っていませんが、未だ生活のために体を売ることを余儀なくされているのかもしれません。