(原作知らずの斜め読みネタバレ解説)40代のノスタルジー
岡崎京子さんについてもこの映画の原作についても何も知らない者のレビューです。今、公式サイトとウィキペディアを読んだ程度です。
それにしても最近の日本映画は、漫画が原作とかアニメの実写とかが多くなっている印象です。元となるものが、形は違っても、すでにひとつのビジュアル様式として一定の評価を得ているわけですから、それを映画化するのってやりがいがあることなんですかね。
極端な言い方かも知れませんが、漫画って映画の側から見れば絵コンテみたいなものでしょ。ん? じゃあ映画化することは自然の成り行き? よくわからん(笑)。
監督:行定勲
何だか古臭い感じだなあと思ってみていましたら、1990年代半ばの話なんですね。固定電話、公衆電話、ブラウン管テレビ、レコード、CDなどなどという時代です。携帯はまだまだ高価な時代ですので、さすがに高校生では持てなく、映画では使われていませんでしたがポケベルの時代でした。
それに、これはおそらく意図的といいますか、開き直っているようにも思いますが、登場人物みな、見た目にも人格的にも高校生には見えませんね。
開き直っているのではと思うのは、何人かのうちひとりがそうだという程度ではなく、全員が高校生には見えないわけですから、意図的にキャスティングしているとしか思えませんし、それに高校生に見えないなんてことは作る側だってわかっているわけですから、当然そこに何らかの意味付けをしようと考えると思います。それが、あの登場人物へのインタビューシーンなんでしょう。
物語の進展とは別次元で、登場人物へのインタビューが入ります。
見ていない方にはニュアンスが分かりにくいと思いますが、まず映画の基本物語としては、いじめ、死体フェチ、セックス、そして放火騒ぎから事故での死亡事件(自殺?)と時間軸にそってあれやこれや起きるわけですが、そのところどころに、それぞれ登場人物へのインタビュー、日々感じていることとか他の登場人物の誰彼をど思うかとかを、カメラのこちら側のインタビュアーが質問し、それぞれ登場人物が「素」を演技して答えるカットが入るのです。
そのインタビューがいつ行われた設定かは、全員が同じというわけではなさそうで、ハルナ(二階堂ふみ)はぬいぐるみが燃えていますので映画の時間軸のラストですし、カンナ(森川葵)は放火しようとして自分が焼け死んでしまいますので途中のどこかです。他の人物ははっきりしていません。
おそらくこうしたシーンは原作にはないでしょう。
なぜかといいますと、このインタビューシーンを見ていますと、作り手の、それが企画レベルなのか脚本レベルなのか監督レベルなのかは分かりませんが、原作のまま真正面から作っていいのかとの迷いの現れではないかと感じるのです。
基本の物語はどこか遠い過去のことのように作られており、つまり現代性はほとんど感じられなく、そうであれば、真面目な(?)作り手であればあるほど時代への関わりを持とうとするのではないかと思います。
では、そうだとして、果たしてそれが成功しているかどうかですが、正直なところ、これが何をしようとしているのかよくわからないのです。
まず、基本の物語ですが、多くの子どもたちが病んでいます。
山田(吉沢亮)はいじめられています。死体を見ると落ち着くと語る死体フェチ(ちょっと違う)です。病むこととは違いますが、ゲイだと自認しています。
こずえ(SUMIRE)は過食症で山田と同じく死体フェチです。ハルナに対して、おそらくその性的指向はないと思われますがレズビアン的行為をみせたりします。
観音崎(上杉柊平)は家族愛に恵まれず、それが暴力への衝動として現れる設定です。
ルミ(土居志央梨)は寂しさを紛らわそうとしているのか、単にセックス依存症なのか、誰とも寝てしまいます。
カンナ(森川葵)は山田への思慕が募り、山田と親しくするハルナへのストーカー行為におよび、ハルナの家に放火しようとし自分が焼け死んでしまいます。あるいは自殺かもしれません。
そうした病んだ者たちの中にあって、ただひとりハルナだけが病んでいません。あえてツッコミがあるかもしれない言葉を使えば普通です。
つまりこの映画は、ハルナが主人公でありながら映画の主要なテーマを体現せず狂言回しにまわっている映画ということになります。
それがこの映画を、単に1990年代のことをやっているということだけではなく、遠い過去の物語のように感じさせる大きな原因であり、結果として見る者は傍観者の位置に置かれてしまうのです。
となれば、なぜこの原作をこのような形で「今」映画化したかに興味が湧いてきます。
こういうことでしょうか。
原作が雑誌「CUTiE」に連載されたのが1993〜94年ということですので、今から24,5年前です。その時、その作品を「青春漫画の金字塔と」感じ、「熱狂的な支持」をした主要な読者は、現在40代になっており、社会の第一線に出てきているということです。
つまり、この映画の企画がそうした年代の人たちによってなされているのだろうと思うわけです。
時代の流行が30年で巡るというのも同じことで、つまり40代という年代は組織の中で最も精力的になりうる年代であり、その年代が自らの青春を懐かしみ、それが多くの表現様式に現れるのでしょう。
この映画は、社会的に成功した40代の人たちのノスタルジー映画なのです。