マルクス生誕200年の2018年はボーダレスによる細分化で階級なき社会
タイトルを見て、マルクスとエンゲルスを映画化?! って、なんとなく不思議な感じがしたのですが、今年2018年がマルクス生誕200年ということからの映画化だったんですね。漠然と19世紀の人との意識はあったのですが、正確には1818年5月5日生まれとのことです。
この映画のクライマックスともなっている「共産党宣言」が発刊されたのが1848年、マルクス30歳の時です。
1848年と言えば、日本はまだ明治維新の20年前ですね。
ヨーロッパはもう産業革命の時代で、プロレタリア革命も起きようかという時代の話です。
監督:ラウル・ペック
で、映画は、その「共産党宣言」発刊に至るまでの数年を、マルクスとエンゲルスの出会いを軸に描いており、舞台はドイツ(プロイセン)、パリ、ブリュッセルと移っていきます。原題の「Le jeune Karl Marx」のとおり、「若きマルクス」という映画です。
冒頭に、不思議な感じがしたと書いた意味合いは、マルクスが映画になるの? といった意味なんですが、やはりなかなか難しいかったんでしょう、ドラマ作りに苦労している感じがします。
マルクスって、哲学者や思想家としてはその名を知らない人はいないくらいですが、その割にはあまり知られたエピソードのない人ということもあるのでしょう。
今思い返してみてもあまり印象に残ったシーンもなく、人物像にしても批判好きなところだけ目立っていました。どんな人物であったか、おそらくは書簡やまわりの証言があればそうしたところから想像するしかないわけですから、あまり史実にこだわらず、もう少しマルクス本人に突っ込んだ描写があってもよかったように思います。
むしろ人物像としては、マルクスに金銭的な援助をしたり、女工メアリーを愛したりするエンゲルスが心優しき人物に見えたり、妻イェニーがマルクスよりも聡明に見えたり(笑)、エンゲルスの恋人であり、のちに妻になる(のかな?)メアリーの進んだ(?)現代的女性観にびっくり!みたいな、そちらの方に興味が向く映画でした。
冒頭の森のシーンが分かりづらかったですね。
象徴的シーンなのかと思いますが、貧しき人々(プロレタリアート?)が森の枯れ枝を拾っているところへ馬に乗った森の所有者(ブルジョワジー?)がやってきて、追い払ったり、殺したりします。ナレーションで、木の枝を切り払ったらなんとかかんとか、落ちている枝をなんたらかんたら(笑)、多分、所有、労働、搾取といったことを象徴的に語っていたのかと思います(定かではない)が、導入としてはジャマでした(ペコリ)。
続いて、(おそらく)「ライン新聞」時代のシーンがあり、このシーンだったと思いますが、バクーニンやシュティルナーなんて人物まで登場していましたので、これは面白くなるかなんて期待しましたら、この二人はこのシーンだけでした。
その後、子供を抱えての貧乏暮らしやプルードンの演説を批判したりするシーンがあり、パリへ移住します。
この映画、邦題に原題にはないエンゲルスの名前を入れていますが、ある意味、そちらのほうが正解で、印象としても二人が半々で描かれています。おそらく、具体的な労働者のシーンを入れるためには、紡績工場の経営者の息子であり、経営にも参画しているエンゲルスの方が描きやすく、また、ブルジョワジーでありながらプロレタリア革命を説くという矛盾を内面化した人物であることもまた映画的ではあります。
「エルメン&エンゲルス商会」の労働争議(?)のシーンがあり、そこで働くメアリーの解雇シーンがあり、エンゲルスが、おそらくブルジョワジーが足を踏み入れることはないような地域までメアリーを探し求めていくシーンがあります。
といった感じで、この映画、マルクスの伝記的映画というよりも、この4人の映画といったほうがよく、実際、共産党宣言にしても、この4人の合作のようなつくりになっていました。
映画としては、やや散漫ではっきりしたところのない出来ですが、人物としても、またテーマとしても難しい対象の映画化だったとは思います。
そしてまた、マルクス主義にどこか権威主義的なところがあるにせよ、マルクス主義=ソ連、中国ではないわけですので、今まさに問題となっている格差が(複雑になっているにせよ)労働搾取にあることは間違いなく、その意味ではマルクス主義の原点はこの映画に見られるような格差なき社会を目指すことにあるわけですので、そうした意味では意味のある映画だとは思います。
ただ、人物の描き方としては物足りなく、できるならばもう少し人間関係に重点を置いた映画のほうがいいように思います。