世界最高の辞書OEDの誕生秘話(はマッチョな男の物語?)
メル・ギブソンがサイモン・ウィンチェスター著『The Professor and the Madman: A Tale of Murder, Insanity, and the Making of the Oxford English Dictionary』の映画化権を得たのが1998年、公開までに20年を要した映画です。
さらに撮影中に製作(出資者?)のボルテージ・ピクチャーズと法廷闘争になり、メル・ギブソンと監督のファラド・サフィニアが距離をおくことで和解し、最終的にはボルテージ編集版として公開されたようです。
メル・ギブソンは「The Voltage version of this film is a bitter disappointment to me.(私はボルテージ版にひどく失望しています」とのコメントを出しています。
Mel Gibson On ‘The Professor & The Madman’ “Disappointment” – Deadline
監督名がファラド・サフィニアではなく別名のP・B・シェムランとなっているのも和解条件なんでしょう。
映画のつくりはオーソドックスな歴史ドラマです。
『オックスフォード英語辞典』編纂をめぐる裏話をメル・ギブソン、ショーン・ペン、そしてナタリー・ドーマー、ジェニファー・イーリーといった俳優たちで見せる映画です。特に狂人を演じるショーン・ペンの錯乱ぶりが見どころかと思います。
ネタバレあらすじ
1872年、ロンドンの法廷です。ウィリアム・チェスター・マイナー(ショーン・ペン)が殺人の罪で裁かれています。
犯罪行為がフラッシュバックで入ります。
マイナーはイェール大学を卒業し南北戦争で北軍に従軍した軍医ですが、捕虜の顔に焼印を押した行為の罪悪感から顔がただれた男が追ってくるとの幻影に悩まされています。ある夜、無関係の男をその妻イライザ(ナタリー・ドーマー)の前で射殺してしまいます。
裁判では無罪となりますが精神(科)病院(Broadmoor Hospital)へ収監されます。
オックスフォード大学ではオックスフォード英語辞典編纂の会議が行われ、ジェームズ・マレー(メル・ギブソン)を責任者とするかどうかで議論がかわされています。マレーは独学で学んでおり学士号をもっていません。しかし、いかに自分が言語学において優れているかを滔々と述べ、また後押しする理事の力もあり編纂の責任者となります。
マレー一家はロンドンからオックスフォード(じゃないかも)に引っ越します。妻エイダ(ジェニファー・イーリー)は引っ越しを好ましく思っていませんが夫のために同意します。
マレーの考える辞典は言葉の歴史を記述することにあり、ある言葉が過去どのように使われどう変わってきたかを過去の書物から時系列で引用して記述しようとするものです。具体的な方法は協力者を募り、カードに過去の書物の記載例を記載してもらいマレーのもとに送ってもらう計画です。
マレーは自宅の庭に編纂室をつくり作業を始めます。しかし早い段階で作業は行き詰まります。ある言葉(approveだったかな?)の17、18世紀(これも自信ない)の用例が見つかりません。
一方、精神病院のマイナーはブレイン院長の治療を受けます(特にシーンはない)が相変わらず亡霊に苦しめられています。
院長はマイナーに様々な自由を与えています。そのひとつが好きな本を与えることです。マイナーはたまたま開いた本の中から辞典編纂のための協力募集の書き付けをみつけます。マイナーは狂ったようにカード作成に没頭し大量のカードをマレーに送ります。
弱気になっていたマレーですが、マイナーからのカードで一気にことが進むようになり、それ以降、マレーとマイナーは手紙をやり取りしながら協力関係を築きます。
マイナーは早い段階から自分の年金を殺害した男の妻イライザに贈りたいと申し出ています。当初は頑なに拒んでいたイライザですが、現実は子どもたち(5、6人いた)の日々の食べ物にも困っています。
イライザは院長の勧めもありマイナーと会うことを決心します。一度目は憎しみで顔を見るのが精一杯でしたが、二度三度と会ううち、年金を受け取ることにも同意し、話すこともできるようになります。
マイナーはイライザが訪ねてくればふたりで庭を散歩することができるくらいにまで回復します。イライザが本を持ってきてくれます。マイナーが書き出しを読んでくれれば何かを当ててみせようと言いますとイライザは無言で立ち去ろうとします。マイナーは後を追い、すまない、私が読み書きを教えると言い、さらにふたりの距離は縮まります。そして、ある日、イライザの方からキスをします。マイナーは動揺します。
辞典の第一巻の初稿が完成します。マレーがそれを持ってマイナーを訪ねます。(マレーはマイナーが病院の医師か何かと思っていたようでもあるが、)マレーはマイナーの現状(足は鎖で繋がれている)を知るものの二人は協力を約束し合います。
イライザが子どもたちを連れてマイナーのもとを訪れます。マイナーがひとりひとりに笑顔で対していきますと最後の長女がマイナーを睨みつけ頬を叩いて走り去ってしまいます。
マイナーは再び幻影に苛まれるようになります。イライザから覚えた言葉で書かれた短い手紙が送られてきます。手紙には「If love… then what?(間違っているかも)」と書かれています。
マイナーは自分が殺した男から妻を奪ったと苦悩しさらに症状は悪化します。そして、ついには自分の陰茎を切り取ってしまいます。
マレーがマイナーを訪ねますが話をできる状態ではありません。さらにマレーの周囲にもマイナーが殺人を犯し精神病院に入院していることが知られ、妻さえもマレーに疑念の目を向けるようになります。
精神病院の院長はこれまでの温情ある対処から一転して強行手段を取るようになります。(このあたりは映画的にも意味不明)イライザが面会を求めても会うことができません。
オックスフォード英語辞典の編纂に狂人が関わっているとの新聞記事が出ます。マレーは責任者から外されそうになりますが、後押しする理事のおかげで解任は免れます。
さらに、マレーを後押しする理事の力で内務大臣ウィンストン・チャーチルに掛け合うことができ、マイナーをアメリカに追放(つまり釈放)するとの裁定を得ます。
マレーは辞典編纂を作業を続けます。窓から見える庭では子どもたちが戯れています。
マレーは2015年、マイナーは1920年に死去したこと、そしてオックスフォード英語辞典は1928年、70年の歳月をかけて完成したことがスーパーで流れます。
という映画ですが、後半、特にマイナーの症状が悪化してからは物語も混乱しているように感じます。
ショーン・ペンの憑依型演技を見る映画?
冒頭に書きましたようにこの映画にはノンフィクションの原作があります。
未読ですので読後感のサイトとか著者のサイモン・ウィンチェスターさんのウェブサイトなどを読んだりしたのですが面白そうで興味をそそられます。
映画よりも面白そうです(ペコリ)。
もちろん原作は原作、映画は映画でいいのですが、なんだかショーン・ペンさんが全部持ってちゃっているような映画になっています。
憑依型の演技を見るのも悪くはありませんが、もう少し辞典づくりと絡めて描かれていればと思います。実際、辞典づくりの直接的なシーンは、前半にマレーが approve だかの使用例が見つからずに壁にぶつかるシーンとマイナーが協力者募集の書き付けを見て猛然とカード作りを始めるシーンだけです。
すごいセットが組まれていますがもったいないですね。
原作ではマレーとマイナーは20年間会うことはなかったようですので映画的に辞典づくりに関するふたりのドラマをつくることが出来なかったということなんでしょう。
地道な辞典づくりだけでも、あるいは手紙のやり取りだけでも面白い映画はできると思いますが、メル・ギブソンさんやこの映画の製作陣にはこの映画のような人間の激しい喜怒哀楽の中にしかドラマは見いだせないということのようです。
映画に漂うマッチョな価値観
この映画はかなり意図的に「女性」を前面に出そうとしています。
もう少し具体的に言いますと、マレーとマイナーの(映画的な)扱いと同じようにイライザやエイダを扱っていると見せようとしています。
それがなぜかの憶測は置いておいて(笑)、まずエイダですが、映画的には重要な役どころではないのになぜか最初の登場シーンから画としてもかなりのアップでフィーチャーされています。
マレーが辞典編纂の責任者となりオックスフォードへ引っ越す際にもわざわざいっときエイダに反対させすぐに同意させています。反対する理由が何かを示さないままにです。
マイナーが殺人を犯し精神を病んでいるとわかった時も同じような展開です。いっときマイナーに対して疑念を持たさせ、なぜかその後オックスフォードの理事会に乗り込み男たちを前にしてマイナーが必要だとの大演説を打たさせています。
あの演説も何を言おうとしているのか正直わかりませんでした(字幕が悪い?)が、その後の展開をみればエイダは何の役にも立っていません。ことを動かすのはマレーを買っている理事で、奥の手があるとか言ってチャーチルにマイナーの釈放を願い出ています。
エイダは人格を与えられていないように見えます。夫に従属する妻という立場のまま画づら的に前面に押し出されています。
イライザの場合は少なくとも人格は与えられてはいます。ただし、それはあくまでもマイナーの「男らしさ」を補完するものとして「女性」としてです。
夫を殺されながらその加害者に愛情を感じていくってドラマはどう考えてもマイナーの人物像を際立たせるためのものであって、イライザに人格があるとしてもそれは男の求める姿でしょう。
挙げ句の果にマイナーに自らの陰茎を切断させています。イライザを利用してマイナーの罪悪感をより深いものしようとする運びにはかなりの違和感を感じます。
マイナーは実際に陰茎を切断する(程度はわからない)という自傷行為をしているようですが、 映画のようなイライザとの関係においてではありません。どうやら実際のマイナーの心の闇は映画のような単純なものではなさそうです。
時代物なら時代物の人物設定で描くべきです。むりやり男女平等的に描こうとしても根がマッチョであればおのずとその価値観がにじみ出てしまいます。
言葉が世界を支配する
映画の時代はヴィクトリア王朝時代で、映画の中にもありましたが大英帝国が世界の陸地と人口の4分の1を手にしています。
言葉はあらゆるものの源です。言葉が違えば見えているものも違います。言葉が変われば考え方も変わります。
映画の中に辞典づくりで世界の4分の1で使われる言葉の規範を示すといった意味合いの台詞がありましたが、オックスフォード英語辞典の成果であるかどうかは別にして、結果として今や英語が世界を支配する時代になっています。
世界の覇権を握る野望は英語なくしては成し得ないということかもしれません。
The Oxford English Dictionary, Second Edition (20 Volume Set<5 Boxes>)
- 作者:Simpson, John A.
- 発売日: 1989/03/30
- メディア: ハードカバー