ホラーと言うよりも女たちの嘆きと悲しみの映画
「火の山のマリア」のハイロ・ブスタマンテ監督の4年ぶりの新作ということになります。この作品は昨年2019年8月のヴェネチア映画祭で上映された映画ですが、IMDbを見ますと、ほぼ同時期の2019年の2月のベルリン映画祭に「Temblores(Tremors、震え?)」という作品が出品されています。
実はこの映画、見ずに終わるところでした。(マジな)ホラー系はほとんど見ませんので、映画.com の「中南米に伝わる怪談ラ・ヨローナをモチーフに…」の一行だけですっ飛ばしていました。
で、その後なにかの記事で「火の山のマリア」の文字が目に入り、おお、あぶなく見逃すところだったとなったわけです。なにせ「火の山のマリア」は結構記憶に残っている映画なんです。
ですが、これは(映画としては)ダメでした(ペコリ)。
映画としてはと但し書きにしているのは、いろいろブスタマンテ監督の活動を調べてみますと、グアテマラの映画界への様々なアプローチの一環だということがわかってきたからです。こんな記事がありました。
この記事によりますと、ブスタマンテ監督は、2019年に「IXCANUL財団 (the IXCANUL foundation)」という非営利の組織を立ち上げており、そこで映画を媒介にしてグアテマラ(マヤ人とかもう少し広範囲の表現)の社会変革に貢献しようとしているようです。
「IXCANUL」というのは「火の山のマリア」の原題ですのでその映画で得た収益を組織の原資としているということだと思います。
また、この記事によりますと、2017年には「La Sala De Cine」というアマチュアの映画監督の作品を無料で見られるスペース(映画館?)を設けているそうですし、さらに、この映画の主演のマリア・メルセデス・コロイさんなど、俳優のマネージメント会社も立ち上げているらしいです。
ハイロ・ブスタマンテ監督は1977年生まれの43歳くらい、グアテマラの大学を卒業後は広告の仕事をし、その後パリに移り映画の勉強をした方のようです。
そして、30歳代前半の2009年にはグアテマラで映画制作会社も立ち上げたとあります。2015年に「火の山のマリア」で一躍注目され、2019年に「Temblores」とこの映画を立て続けに発表していることになります。
グアテマラの映画界がどういう状態なのかはわかりませんが、フランスへ行きっぱなしにならずにグアテマラで活動していこうというスタンスと思われ好感が持てます。
で、映画ですが、そもそもの構想自体の意図を図りかねます。そのせいもあって、以下映画については断片的な記述になっています(笑)。
グアテマラでは1960年から1996年まで内戦状態にあり、その間、反政府派への徹底的な弾圧や先住民の虐殺により「約20万人の死者や行方不明者(ウィキペディア)」を出したと言われています。特にエフライン・リオス・モントが大統領であった1982年~83年はひどかったらしく、2013年、裁判により大統領自身に「キチェ県のイシル族を中心に1800人近くを殺害したとしてジェノサイドの罪と人道に対する罪で禁錮80年の刑が言い渡された(ウィキペディア)」とのことです。
これらは史実ですが、映画が描いているのは基本的にはドラマです。ブスタマンテ監督はインタビューで、虐殺の罪で裁かれるエンリケも特定の誰かをモデルにしているわけではなく、ラテンアメリカの独裁者は皆似ていると語っています。
そのエンリケの裁判から始まります。有罪判決がおります。しかし、後日その判決が無効になります。映画はこうした裁判の経緯自体にはあまり注目していません。映画が描こうとしているのは虐殺された先住民、特に女性たちの怨念のようなもの?、ちょっと違うかも知れません、深い悲しみと言ったほうがいいかも知れません。それにラ・ヨローナ伝説を絡ませています。
ラ・ヨローナ伝説とは、公式サイトによれば、
南米に広く伝わる怪奇伝説。二人の子どもと共に夫に捨てられた女は、子どもを溺死させて自らも自殺する。女の悲しみは死後も魂となって彷徨い続け、その嘆きの声は人々を怖がらせた。
ということです。
具体的には、エンリケの屋敷に新しくやってくるメイドのアルマ(マリア・メルセデス・コロイ)がその伝説の「女の悲しみ」の象徴であり、 そのアルマを村から呼び寄せた元々いるメイドのバレリアナがアルマを知らないといっていますので幻的な存在ということかと思います。
虐殺事件という史実を怪奇伝説というファンタジーで描くというそもそもの構想がまったくうまくいっていません。
多分ホラーにしようという意図はなかったんだとは思いますのでホラーっけがないのはいいにしても、ファンタジーっぽさが虐殺事件そのものを曖昧にしてしまっています。かと言って中南米でイメージされる魔術的な神話っぽさが出ているかと言いますとそれももうひとつです。
エンリケはすでにかなり老齢であり、アルマが来る以前から亡霊を見るようになっています。映画のかなり早い段階で夜中に女の鳴き声がするといって彷徨い歩きたまたま見えた人影に発泡したりします。
エンリケの孫(10歳くらい?)がアルマを慕うようになり、アルマによって操られてエンリケをプールに誘っているように見えるシーンもあるのですがそれもなんともはっきりしません。
ある夜、またもエンリケがさまよい始めアルマが入浴するバスルームに忍び入り騒ぎになります。このシーンもどちらかと言いますと現実的でアルマによるオカルト的なシーンには見えません。
この時、エンリケの妻が、昔からエンリケはインディオの女が好きだった、メイドのバレリアナは娘かも知れない、なんて言っています。ファンタジー感がなく現実的なんですよね。
そしてラスト、の前に書き忘れています(笑)。
有罪判決が無効になったことで、エンリケの屋敷は抗議の声を上げる先住民たちに取り囲まれ、エンリケ家族は外出もできない状態になっています。先住民たちは時に悲しみの歌を歌ったりして、若干ですが魔術的な感じはなくはありません。
で、本当は、包囲する先住民やアルマの嘆きの声がエンリケ家族を包み込むようになってことが起きなくてはいけないと思いますが、なんだかよくわからないままに、アルマ(いたかな?)やバレリアナやエンリケ家族の女達が円陣を組み、よくある呪いを解くような魔術的な行為をやりますと、逆に(なのかな?)エンリケの妻に呪いが宿りエンリケの首を絞めて殺してしまいます。と、私には見えたんですがよくわかりません(笑)。
その後、エンリケの葬儀のシーンがあり、そこでもトイレの水が溢れたりしますが、これもまたしっくりこないシーンです。
という映画です。
「火の山のマリア」でも書いていますが、ブスタマンテ監督は作り込まれたドラマを得意とするようなタイプではなく、シンプルに事実(ドラマ的なという意味)を追って物語を語っていく監督ではないかと思います。ですので内戦時の虐殺を描くのであればむしろ虐殺された先住民の側を主体にしたほうがうまくいったのではないかと思います。
その意味では、この映画もカメラが女性たちをじっと捉えるカットが非常に多く、それはアルマだけではなく、エンリケの娘ナタリア、エンリケの妻カルメン(かな?)、孫娘のサラ、バレリアナ、そうしたすべての女性が実はエンリケに象徴される男たちの犠牲者だと言っているようにもみえます。