海の沈黙

濃厚な昭和の香りに酔い負けそう…

本木雅弘さんと小泉今日子さんの共演ということで見たのですが、初っ端から違う世界に迷い込んだような感覚に陥り、頭がくらくらしました。

ああ、昭和…。

海の沈黙 / 監督:若松節朗

びっくりシーン2題…

映画冒頭は、小泉今日子さんのクローズアップにドスのきいた男の声であなたの心には男が潜んでいる(まったく違うけどこんな感じ…)って始まるんです。は? なに、これ? ってびっくりしたんですが、あれ、占い師ってことなんですかね。

その上、その占い師は、あなたの夫は京都にも住まいを持っており、そこに女がいるなんて物語の説明までしてくれるんです。それに対して小泉今日子さんじゃなくて田村安奈は子どももいますと平然と答えています。

こういう説明のしかたもあるんだ!という驚きのオープニングに続いて、東京美術館で始まる安奈の夫、田村修三(石坂浩二)の展覧会のシーンになり、その修三が自作の「落日」という絵の前で贋作だと(ここでは言いませんが…)心の中で思います。

とにかく、こんな大仰なつくりの映画がまだあるんだとびっくりしたということです。

あまりの驚きにこんな書き出しになってしまいましたが、映画としては一応最後まで見られます。ただ、面白いというよりも数多くある驚きのほうが勝っているからじゃないかと思います(ゴメン…)。

ああ、もう一つ、これは最初に言っておかなくちゃいけないというびっくりがもう一つありました。

後半になり、津山竜次(本木雅弘)が絵を描いている最中に血を吐いて倒れ、その後、それをあざみ(菅野恵)という女性が看病するシーンがあるのですが、そのとき竜次が寒いって言うんです。次、どうなったと思います? あざみが私が温めてあげると言って衣服を脱ぎ裸で竜次の布団の中に入るんです。

その後の竜次の台詞にも驚きましたが、それは後にするとして、とにかくこの映画の中で一番の驚きのシーンでした。というよりも見ている自分が恥ずかしかったです。

昭和っていうのはこんな感じだったんですね。

よくわからないことが多い物語…

上には省略して簡単に書きましたが、展覧会は田村修三の師事した画家とその門下生3人の展覧会となっており、オープニングのセレモニーでは文科大臣が挨拶するという業界のアカデミックさを強調するシーンとなっていました。

ラストシーンではその対比として、津山竜次のナレーションでお金や権威によって価値付けられるものに意味はあるのか、本当の美とはそうしたところとは無縁のものだと語られて終わります。

これが倉本聰さんの思いなのかもしれません。ただ、自らそう名乗っているわけではありませんが巨匠と言われる倉本さんではあります。

それに巨匠でもなけりゃ、そんなこと言っても誰も聞いてくれません。永遠に解けないパラドックスですね。

で、修三はまわりから展覧会が終わるまでは内密にしてほしいとの願いを振り切り、画家のプライドが許さないと言い、贋作であることを公表してしまいます。

その後、絵を所蔵している美術館の館長の自殺騒ぎがあったり、ゴッホやモネの贋作を調査しているインターポールが登場したりしながら、話は小樽に飛び、全身に刺青をした女性の自殺があり、その女性の代わりとなるあざみが登場します。

これじゃ端折り過ぎで訳がわかりませんね(笑)。でも、見ていてもこんな感じです。

この映画が物語展開上で問題があるとしますとまさしくこの点で、主人公である竜次がなかなか登場しないことと、登場したと思いましたらそのときにはもう竜次の謎がすべて明かされてしまっていることです。

竜次と修三は学生時代に安奈の父である画家の門下生として競い合っており、あるとき、キャンバスを買うこともできないほど困窮していた竜次は先生の絵を塗りつぶして「海の沈黙」を描いたということです。その絵を見た先生がこれほどの熱情があれば自分でも同じことをするだろうと言ったにもかかわらず、修三が他の門下生たちと一緒になり竜次を追い出したようです。

また、竜次の父は漁師であるとともに刺青の彫師であり、竜次自身も刺青に惹きつけられており(このあたりの描写は適当でよくわからない…)安奈の背中に睡蓮(だったか…)を彫ろうとした(ということはないと思うけどそれらしき画があった…)ことがあるということです。

その後竜次は、番頭を名乗るスイケン(中井貴一)の援助のもと、ゴッホやモネの贋作を描いたり、刺青を彫ったり(なのかどうかよくわからない…)しており、現在は小樽の地で本物の海の絵(と火かな…)を描こうと奮闘しています。

ただ、竜次は肺がんを患い余命半年と言われています。そして隆二は血を吐きながら本物の海の絵を描きあげます。そのとき傍に寄り添うのは、安奈ではなくあざみです。

安奈(小泉今日子)はどういう存在なの?

安奈演じる小泉今日子さんはどういう存在?…

安奈という人物はおまけのようでした。

クレジットには倉本聰さんの原作とありますが、ググっても小説とかもなさそうです。

これのことなんでしょうか。

まあ、あざみといい、その前に自殺している牡丹(清水美砂)といい、主演であるはずの小泉今日子さん演じる安奈にしてもほとんど物語に絡んできません。本物の美とか一見高尚にみえるようなことを言いながら、結局竜次が裸になったあざみを抱きながら言うことは、この温かさは母親のものだと言うんです。なにー?! とは思いましたが、どうやら言っていることはかなり幼い頃に母親に抱きしめられたことを言っているらしく、自分の死に際に成人の裸の女性を抱きしめながら思い出す母親の肌の温かさってのはかなり倒錯的に感じます。

話がそれましたが、この映画の中で安奈が存在する意味はどこにあるのでしょう。こんな位置づけなら出さなきゃいいのにというくらい、全編男の妄想映画でした。

まるで女は男のために存在していると言っているかのようです。

安奈を登場させるのであれば、何十年経てもなお安奈への思いを断ち切れない竜次という、まあ相当ダサい設定ではありますが、その方がよほどこの映画のトーンにあっています。

ラストシーンは、安奈(小泉今日子)がぱっと片肌を脱ぎますとそこには鮮やかな睡蓮の刺青が…なんて展開にしたほうがよっぽど映画全体のトーンに合っているんじゃないかと思います。もちろん冗談です(笑)。

ということで、いまだ昭和健在!という映画でした。