アルモドバル監督の自伝的フィクションの物語
アルモドバル監督自身が、この映画は三部作の第三章にあたると語っているようです。ただしあくまでも「意図したことではない」とのただし書きつきです。
意図せずケリがついちゃったということはとうとうアルモドバル監督も自分の映画を振り返る年齢になってしまったのかなあと思いましたら、いやいやまだまだ撮るぞと終わっていました。
パンフレットによればこういうことです。
まったく意図したことではありませんが、『ペイン・アンド・グローリー』は自然に出来上がった3部作の第3章にあたります。(略)最初の2章は『欲望の法則』(87)と『バッド・エデュケーション』(04)です。(略)3本とも欲望と映画を題材としたフィクションが物語の柱となっていて、(略) フィクションと人生は表裏一体。人生には常に痛みと欲望が伴うのです。
監督の言葉にツッコミ入れてもしかたありませんが(笑)、アルモドバル監督の映画はどれも人生における「痛みと欲望」の映画です。
まあ3本とも主人公が映画監督ですから当然自伝的要素は入ってくるでしょうし、さらにこの映画が上の2つの映画の時代と現在の3つの物語で構成されているわけですから、撮ってみたら何だこれ自分じゃないかと思ったのかも知れません。
映画監督サルバドール(アントニオ・バンデラス)が脊髄の肉体的な痛みと母の死という精神的な痛みに苛まれて創作意欲を失っている現在の物語がひとつ、舞台劇「中毒」によって再現される最も精力的だった時代の愛と別れの物語がふたつ目、そして「初めての欲望」という新作映画によって再現される幼い頃の自分と母ハシンタ(ペネロペ・クルス)の物語の3つです。
「バッド・エデュケーション」と「欲望の法則」は、この映画の幼い頃と最も精力的だった頃に当てはまるわけですから、その意味では三部作という言葉にはアルモドバル監督のある種の感慨がこもっているのかも知れません。
ところでペネロペ・クルスさんのシーンはサルバドールの回想だと思って最後まで見ましたが、あれは回想という意味だけではなく、サルバドールに再び創作意欲が生まれて撮り始めた「初めての欲望」という新作の撮影シーンでもあったようです。
ハシンタたち女性4人が川で洗濯するシーンなど、回想にしては入り方がどうも妙だなあと気になっていましたのでラストシーンでスッキリしました。
ラストシーンは、ハシンタと幼いサルバドールが眠りにつくシーンでカメラがスーと引いてきますと、撮影の音声さんがフレームインし、ペネロペが子役にカットよみたいな仕草でトントンとしてカメラ目線になって終わります。洒落た終わり方でした。
「フィクションと人生は表裏一体」ということでしょう。
ですので3つの物語と書きましたが、映画の時間軸自体は、サルバドールが心身ともに抱える痛みを克服して創作意欲を取り戻し新作映画を撮るまでのひとつということになります。
冒頭はサルバドールがプールに沈んでいるシーンからです。その後、ホテルのラウンジのようなところで俳優の友人に出会い「ただ生きてるだけ」などと現況を語るシーンになりますので、ホテルのプールで瞑想にでもふけった後に出会ったのかと思っていましたが、後から考えれば、背中に手術跡がありましたのであれは時間軸で言えば最も最新のシーンだったかも知れません。
サルバドールは、30年ほど前に撮った「風味」という映画がシネマテークでかかることになり、そのQ&Aに招かれていると語ります。しかし、その映画の主演アルベルトとはその演技が気に入らずに言い争いになったまま疎遠になっています。しかし意を決して30年ぶりにアルベルトを訪ねることにします。
その再会が思わぬ方へ進展していきます。逃避願望ということなんでしょうか、アルベルトとの再会がヘロインに手を出すことのきっかけになってしまいます。ただ、ヨーロッパの映画ですので良くも悪くもそのこと自体に重苦しさはありません。
「風味」ってスペイン語ではどういうニュアンスなんだろうと思いますがとにかく、Q&Aはすっぽかすことになり、それでも電話越しでなんとか始まったものの、おそらく30年前と同じことなんでしょう、サルバドールの辛辣な物言いがアルベルトを怒らせることになり再びふたりの関係は冷え込んだものになります。
ただこのふたりの関係の紆余曲折はさほど重要なことではなく、ポイントはサルバドールがヘロインの初期的中毒になることとサルバドールの書いた舞台劇「中毒」を俳優として再起を期すアルベルトが演じることでサルバドールのある時期の過去が語られることです。
ある時期、サルバドールはフェデリコという男性と愛し合って一緒に暮らしており、そのフェデリコが楽物依存であり、それが「中毒」という舞台劇になっているのです。その舞台を偶然(ってことはないけれど)フェデリコが見てサルバドールと再会することになります。
フェデリコは今は女性と結婚しふたりの息子がいると語ります。別れ際フェデリコが濃厚なキスをしますとサルバドールは欲情してくれて(ちょっと違うかも)嬉しいと答え、フェデリコがこのまま残ろうかと返しますとサルバドールは帰れと答えます。
このあたりの展開を語る言葉はなかなか見つかりませんが、アルモドバル監督の今の心情が現れているシーンかも知れません。それに、フェデリコってフェリーニ監督からかもって考えてしまいますし、主人公が映画監督で創作意欲を失っているということからすれば「8 1/2」を連想してしまいます。どうなんでしょう、アルモドバル監督にその意識はあるのでしょうか。
とにかく、フェデリコとの再会でひとつのけじめがついたのでしょう、サルバドールは脊髄の肉体的な痛みと向き合う決心をし、エージェント(アシスタント?)のメルセデスのサポートを受けて喉のしこりと(多分)脊髄の手術をする決心をします。
サルバドールは、メルセデスに対して自分がまだ母親の死から立ち直れていないと語り始めます。この母親とのシーケンスは年老いたハシンタをフリエタ・セラーノさんが演じてフラッシュバックで描かれます。
どことなく唐突さが感じられ、流れからすれば映像はなくてもよかったのではと思いますが余計なことではあります。アルモドバル監督にとって、というよりも多くの男性の映画監督にとって母親は永遠のテーマですので(笑)、フリエタ・セラーノさんに演じてほしかったのかも知れません。
無事に手術を終えたサルバドールはメルセデスからある展覧会の案内状を見せられます。なんとそこに描かれているのは、あの日あの時、あの若者が描いてくれた幼い自分が椅子に座って本を読む姿ではありませんか!
ということで、一見サルバドールの回想であり、また再び創作意欲を取り戻したサルバドールの新作「初めての欲望」のクライマックスでもある(と私が思う)スペインっぽい美しい白い町の(ような)シーンが描かれます。
ハシンタ(ペネロペ・クルス)は幼いサルバドールを連れて夫の故郷(かな?)に移ってきます。しかし、そこは洞窟の住まい、ハシンタは驚きつつも気丈に振る舞いサルバドールとの生活を築いていきます。サルバドールは利発な子で読み書きができますので村の若者に読み書きを教える代わりに壁に漆喰を塗りタイルで飾ったりの補修を頼みます。
その若者は絵を書くことが好きです。ある時、洞窟の補修がひと段落つき、サルバドールが椅子に座って本を読んでいるところをデッサンします。暑さのせいか気分が悪くなったサルバドールはベッドに横になります。
若者は汗をかいたからと汲んである水を使い裸になり体を洗います。若者が裸のままタオルを取ってくれとサルバドールに声をかけます。サルバドールはタオルを手にし、若者の裸体を見たまま崩れ落ちます。
慌てる若者、ハシンタが戻り慌ててサルバドールを介抱しつつ、汲み置かれた水がないのをみてどうしたのと咎めます。汗をかいたからと言い残して去る後ろ姿をハシンタの目が追います。
話はそれますが、あのハシンタの目線はサルバドールと若者の間に何かを感じたという演出だったのでしょうか。
サルバドールは展覧会に行きその絵を購入します。そしてその絵の裏にあの若者からのメッセージを見つけます。
「親愛なるサルバドール。この手紙を書くことができるのも君のおかげだ。あの頃が懐かしい。よく君のことを思い出す。」
こんな感じだった思います。
創作意欲が蘇ったサルバドールは「初めての欲望」を書き上げます。
ラストシーンは、ハシンタと幼いサルバドールが眠りにつくシーンでカメラがスーと引いてきますと、撮影の音声さんがフレームインし、ペネロペが子役にカットよみたいな仕草でトントンとしてカメラ目線になって終わります。洒落た終わり方でした。
「フィクションと人生は表裏一体」ということでしょう。
それにしてもアントニオ・バンデラスさん、渋い俳優さんになりましたね。