人は記憶を失えば他者と世界を共有できない、しかし…
つい3ヶ月ほど前に「わたしは光をにぎっている」を見たばかりの中川龍太郎監督の「静かな雨」です。原作ものは初めてとありますのでおそらくオファーがあったのでしょう。
映画を見て興味を持ちました。読んでみようと思います。
中川監督にしてはテーマがはっきりと前面に出た映画です。原作のせいかもしれません。
記憶です。人は記憶を失えば他者と世界を共有できない、けれども、人はそれを愛で乗り越えようとするという話です。
行助(仲野太賀)とこよみ(衛藤美彩)、ふたりのラブストーリー…、と言いますか、もう少しファンタジックな関係といったほうがいいかもしれません。特にこよみの方には実在感があるような、ないような感じですし、体のふれあいはただの一度だけ、こよみが行助の額にキスをするだけです。
最初から記憶にまつわるエピソードが散りばめられています。
行助は大学の研究室で助手(かな?)として働いているのですが、最初の研究室のシーンで、いきなり教授がある人物の話をし始めます。
その人物は幼い頃から毎日日記をつけていたのに、ある時、それまでの60年間の日記をすべて燃やしてしまったそうです。そして、その人物は次の日からまた日記を書き始めたといい、そうすると、その人物にとってそれまでの60年間は一体何だったんでしょうね、という話です。
かなり唐突に始まりましたので、こういう話の映画なんだなとわかります(笑)。
行助は帰宅途中、パチンコ屋の駐車場で営業しているたい焼き屋に立ち寄り、こよみと出会います。やや親しくなった頃、ふたりでたい焼きを食べながら(だったかな?)こよみが子どもの頃の思い出を語ります。
リスボンというリスを飼っていたそうです。リスボンは胡桃を一口かじって隠しておく習性があり、なのに隠したまま忘れてしまうらしく、死んだ後、家のあちこちから食べかけの胡桃がいっぱい出てきて悲しかったと話します。
行助の研究室が何を研究しているのかははっきりしませんでしたが、ある時、教授が行助のモニターを見て会話が始まります。
胃なのか腸なのか、行助が、内臓の画像を見ながら記憶は内臓にも宿るのではないかと言います。それに対して教授が何かエピソードを語っていましたがそれは忘れました。
といった記憶に関するいくつかの振りが、ある時、ふたりにとって現実となります。
ある夜、ふたりは一緒に帰ります。雨が降り始めます。なぜか(理由は想像できなかった)行助は、じゃあここで、とさようならを言い別れます。
その夜、警察(か病院)からこよみが交通事故にあったと電話があります。病院に駆けつけると、こよみは意識不明、医師からは意識が戻るかどうかわからないと告げられます。
そして、2週間後、突然こよみの意識が戻ります。しかし、医師からは、事故までの記憶はあるが、これからは1日しか記憶が保てないだろうと(いったようなことを)言われます。
実は、行助は、こよみについて名前以外何も知りません。住まいも、年齢も、なぜたい焼き屋をやっているかも、電話番号を教えたものの電話を持っているかさえ知りません。これは、原作がそうなのか、あるいはシナリオの段階でそうしたのかはわかりませんが、かなり意図的にこよみを実在感のない人物にしたんだろうと思います。
余談ですが、そうした理由には映画的にどうこうとかいろいろあるとは思いますが、これまで見てきた映画の印象からいけば、中川監督のなかにある無意識的な女性像の現れだと思います。
という感じで、こよみ自体には実在感はありませんが、ただ、演じている衛藤美彩さんにはすごい存在感があります。そのことが、不思議とこの映画の良さにつながっています。バランスの良さとして現れています。
映画自体には現実感はないんだけれども、そこからにじみ出てくる人間の生活感のようなものにはリアリティあるというようなことです。
とにかく、行助(ゆきすけ)はこよみに自分の家に来ないかと誘い、ふたりの生活が始まります。
散りばめられていた記憶にまつわるエピソードが現実のものとなって起き始めます。こよみは毎日、朝、目覚めると「ここ、ゆきさんち?」と尋ね、窓を見て「雨、上がったのね」と繰り返します。事故以降の記憶は目覚めると消えてしまっているのです。行助は言います。「こよみさん、長くなるけど話を聞いて」とこれまでの経緯を話します(その画はない)。
また、行助はブロッコリーが嫌いです。初めてブロッコリーが出た日、食べられないと言ったはずなのに毎日のようにブロッコーが出てきます。
そんなある日、行助がたい焼き屋に立ち寄ると、親しげにこよみに話しかける男がいます。誰? とこよみに尋ねますと、古い友人と答えます。
行助は、その男とこよみの間には、自分とこよみの間にはない、お互いに消えない記憶があることを直感的に感じたのでしょう。雨に濡れて帰った日、その思いをこよみにぶつけてしまいます。
あらためて考えてみますと、これ、かなりきついですね。どんなに長く一緒にいようと、愛する人と同じ世界に生きている実感が持てないということです。なのに、愛する人には過去同じ世界に生きていた人がいつもいるということです。
こよみにしてもつらいことです。自分が記憶を失っていることは、朝聞かされてわかっているのに何を失っているのかはわからないのです。とっさに家を飛び出してしまいます。
行助はひとり残されます。悄然としつつもふと目がいったノートを開けますと、そこには「ゆきさんはブロッコリーが嫌い」のメモが…。行助が慌てて家中を探し回りますと、あちこちに記憶のメモ書きが隠されています。雨の中、行助は外に飛び出していきます。
ああ、事故にあった夜、別れたあの場所へ行くんだなと思いましたら、そう読まれることを中川監督は読んでいたようです(笑)。こよみはそこにはおらず、行助はさらに探し回ります。
月の見える川辺でした。かなり引いた画のままの長回しで、行助が河原の草むらの中に入っていきますので、えー、なにー? とあれこれ考えていましたら、かなり遠くで小さくなっている行助が座り、ん?と目を凝らしましたら、隣にぼんやり白い姿が…、こよみでした。
といった行助とこよみのファンタジックなラブストーリーが、ながーい間合いのながーいカットと、ほぼ全編流れる音楽とともに語られていきます。
はっきりしたテーマとファンタジックな物語、そういう映画です。
映画の冒頭とラストに、こよみの語りで、最初に行助に会った時、行助の目に2つの色(感情)が見えた、ひとつは爽やかと言っていたか(やさしいといった意味の表現だったか)そんな感じで、もうひとつはあきらめの色が見えた、でも私はそのどちらも好きだと入っていたのですが、これはもうひとつよくわかりません。
そのまま理解すればいいのかもしれませんが、なにせそれで始めてそれで締めているわけですから、何らかのメッセージなんでしょう。
あまりにも美しい、物語と、画と、そして構成が、かえって気になり始めた中川龍太郎監督、30歳らしいです。