シュール、シュールと唱えて見ないと理解できないよ
この映画を自分の価値観の中に引き込んで見ようとすると、おそらく前半でお手上げになるでしょう。危ないところでした。心も頭も解き放ってじっとスクリーンを見つめていれば、やがて静かなる感動と、そして見終えて後の、疑問の嵐に見舞われることでしょう(笑)。
シュールです。
公式サイトの書き出しがこうです。
現代のフランス。祖国ドイツで吹き荒れるファシズムを逃れてきた青年ゲオルクが、ドイツ軍に占領されようとしているパリを脱出し、南部の港町マルセイユにたどり着いた。
意味わかりませんよね。架空の話、まあ映画そのものは基本的には架空のものではありますが、この文章を読めば、 架空も架空、歴史ファンタジーもののドラマチックな映画を予想してしまいそうです。
違うんです。本当に舞台は現代なんです。パリもマルセイユも、街は現代そのもの、今我々が見る街の雰囲気そのまま、「ドイツ軍に占領され」などという緊迫感はどこにもありません。その雰囲気の中で、ナチス・ドイツがパリに侵攻した1940年の物語をやっているのです。もちろん「ナチス」という言葉も、ドイツ軍も出てきませんし、ユダヤ人迫害を直接的に描いているわけではありません。出てくるのは、我々もニュース映像などで見る現在のフランスのパトカーですし、重武装した警察官だけです。
疑問など持たず、あえてそうしていると考えなければ置いてきぼりを食います。
ゲオルク(フランツ・ロゴフスキ)はドイツからパリに逃れてきています。ゲオルクが何をしている人物かは語られていませんが、ユダヤ人ではなくドイツ人ということであれば、権力(ナチス)への敵対者ということでしょう。当時も共産主義者や社会主義者、反権力的な芸術家が迫害されています。
冒頭のシーン、ゲオルクがカフェで同志(?)と話しています。カフェには沢山の人がいますが緊迫感など感じられません。二人の会話は、何、何? 何言ってんだ、この二人? などとはてなだったこともあり、詳細は記憶していませんが、パリが危険になっていることとか、マルセイユへ逃げるとか、話の内容はまさに当時の緊迫感を感じさせるものでした。まわりの雰囲気との違和感といったらありゃしません。
こうした違和感は最後まで続きます。今思うことは、この違和感こそが監督の意図でしょう。
ひとつには、「ナチスによる悪夢的史実と現代の難民問題を驚くべき発想で重ね合わせた」と公式サイトにもあるように、当時のフランスの立ち位置を暗示している(可能性がある)とともに、現在の難民問題がごくごく日常の中に存在していることであり、また、知らんぷりすれば見ずにすむことであるというアイロニカルな意味合いがあるのでしょう。
というのは、やや深よみ系の話ですが、確実なことは、これからゲオルクのまわりで起きる様々なことは、たとえそれらが今の日常からみればおかしなことであっても、絶望的な状況に置かれた人々にあっては起こりうることだということです。それが1940年であっても、2018年(製作年)の現代であってもです。
とにかくゲオルクはその同志から、どこどこのホテルにいる作家ヴァイデルへ手紙を届けて欲しいと頼まれます。ゲオルクがホテルを訪ねてみますと、その部屋では従業員が掃除をしており、バスルームが血で染まっています。従業員が言うには、今朝部屋を開けてみたら手首(かな?)を切って自殺していた、死体は知り合いの警官に頼んで始末したとのこと、遺品を持っていってくれと、パスポートとヴァイデル最後の小説の原稿を渡されます。
実際、このあたりでも、私ははてなはてなの連続でした。
ゲオルクは、怪我をしているもうひとりの同志と貨物列車でマルセイユに向かいます。その同志は列車の中で亡くなります。途中、ゲオルクはヴァイデルの小説と手紙を読みます。
一部小説が朗読され、現在の状況を綴ったものだったように思いますが内容の詳細は記憶していません。その小説がラスト近くで重要な要素として出てきますので残念なんですが、画を見逃さないようにと思いながらの字幕ではなかなか記憶しきれません。
手紙はヴァイデルの妻マリーからのもので、その手紙のサインもこれまた重要な要素となっているのですが、この手紙と最初にホテルへ持っていくように託された手紙との関連がいまいちよく理解できずにいます。
ちょっとばかり話はそれますが、この映画、ドイツ語とフランス語、そしてフランス語の手話が使われていますが、その違いの字幕表記がうまくされていなかったように思います。ドイツ語フランス語ともに全く聞き取れませんので判断できませんが、全体としても字幕がよくなかったのではないかと思います。最近の字幕翻訳って質が落ちていないでしょうかね。
ゲオルクはマルセイユに入ります。街はのどかなものです。しかしゲオルクの行く先々にはどこか出口のない絶望感が漂っています。
ここからの人間関係はかなり微妙な揺れ動き方をしますのであらすじのようなことを書いても奇妙に感じられるだけのような気がします。絶望的な環境に置かれた人間たちの行動としてみないとこれまた置いてきぼりを食います。
自分の記憶のためにも簡潔に人間関係だけを書いておきますと、
まず、ゲオルクは列車の中で死んだ同志の妻を訪ね、その10歳くらいの息子と親しくなり、サッカーで遊んだり、壊れたラジオを直したりします。その子はゲオルクを父のように慕うようになります。妻は聴覚障害者で息子とは手話で話します。この妻はドイツ民族ではなさそうで移民を思わせますし、不法滞在のようです。
ゲオルクが最後に訪ねたときには、その親子はおらず、その部屋には移民(難民)と思しき人々が部屋いっぱいにいました。言わずもがなで、映画も何も語っていませんが、現在の難民を重ね合わせているということです。
ゲオルクはメキシコへ逃げるため(なのか、ヴァイデルの遺品に渡航関係のものがあったのか?)にメキシコ領事館へ行きます。順番を待っているゲオルクの前を女性が足早に立ち去っていきます。ゲオルクは惹きつけられます。その女性はゲオルクがマルセイユに降り立った時にも見かけた女性です。
ゲオルクの順番がきます。担当者にヴァイデルの原稿を差し出しますと、ヴァイデル本人と勘違いされ、領事のもとに呼ばれ、妻マリーがあなたを探していると言われます。あの女性です。この後幾度もゲオルクは夫を探すマリーを見かけることになり、そのたびにマリーへの思いが募っていきます(多分)。
領事は、渡航の便宜を図り、アメリカ経由のためアメリカ領事館へ行くように告げます。(この経緯、間違っているかも知れません)
ゲオルクはアメリカ領事館へ行きます。この領事とのシーンはラスト近くにもう一度あるのですが、どちらもとても味のあるシーンで、小説を書く意義であるとかの話をゲオルクが自分の体験から(だと思う)本音で語ったり、領事がゲオルクに妻の名前を聞いたり、最後の小説は何かと尋ねたりすることに、手紙のサインから「マリー」と答え、列車の中で読んだ最後の小説のくだりを語ったりするのです。
いいわぁー、このシーン(笑)。ゲオルクをやっているフランツ・ロゴフスキさんの間合いと表情がいいんですよ。
公式サイトなどには、あたかもゲオルクが計画的にヴァイデルになりすましたかのような表現がありますがそうではありません。成り行きです。後にパスポートを偽造はしていますが、人の意志と運命のようなものが交錯して結果としてその道を歩むことになったみたいなことでしかありません。
もうひとり絡む人物がいます。 ある時、件の息子が病気になり、正規の医者にかかれませんので、同じドイツ人亡命者の医者を探します。ゲオルクがその医者リヒャルドを訪ねてみれば、そこにはあの女性ヴァイデルの妻マリー(パウラ・ベーア)がいるのです。
整理して書きますとこういうことのようです。
ヴァイデルとマリーはドイツを逃れてパリに来たのですが、マリーはそこで出会ったリヒャルドとともにメキシコへ行くことを選択し、ヴァイデルに別れを告げてマルセイユへ来ているのです。その別れが原因でヴァイデルは自殺したということです。ただマリーにはメキシコのビザがなく、渡航を断念してふたりでマルセイユにいるというわけです。
ここからはこの三人の物語になるのですがかなりややこしいです。
ゲオルクはヴァイデルに成りすまし、妻マリーのビザを取ろうとします。同時にリヒャルドに自分たちは後から向かうから先にメキシコへ行くように船に乗せます。マリーはゲオルクがヴァイデルに成りすましてビザを取得したことは知りません。
ホテルに残ったゲオルクとマリー、愛し合おうとしますが、夫のことを話し出すマリー、ゲオルクは(罪悪感なのかかなり微妙)先へ進むことが出来ません。
リヒャルドが、船に乗れなかったと戻ってきます。
あれ? ちょっと混乱してきました。
どういう経緯だったか、今度はゲオルクとマリーが次の船に乗ることになり港に向かいます。タクシーの中、熱い抱擁をする二人、マリーがその船には夫も乗ることを領事館から聞いたと話します。いたたまれなくなったゲオルクは忘れ物としたとタクシーを降り、ホテルに戻り、(どういう経緯だったか忘れたけど)意気消沈しているリヒャルドにビザや渡航のための書類をいくらかで売り、港に向かわせます。
で、話は戻りますが(笑)、マルセイユのシーンになってから男の声でナレーションが入るようになります。かなり説明的なナレーションで、一体誰だ? と思ったのですが、かなり後半になってからではありましたが、私の店に…とありましたので、ゲオルクが行きつけになったカフェのオーナーの回想ということです。
二人を送り出したゲオルクはそのカフェのオーナーにヴァイデルの最後の小説を渡し預かってくれと言います。つまりその男にすべて告白したということでしょう。
コーヒーを飲むゲオルク、とその時、窓の外をマリーが歩いていきます。あわてて後を追うゲオルク、しかしマリーはどこにもいません。
マリーが船に乗ったかを確認しようと船会社を訪ねます。職員は、その船は機雷に接触し沈没、全員死亡したと告げます。
ゲオルクのアップで終わります。
この三人の心の揺れを理解するのはなかなか難しいです。でも、なぜか、ゲオルクのことも、マリーのことも、リヒャルドのことをよくわかるような気がするのです。
ゲオルクをやっているフランツ・ロゴフスキさん、喜怒哀楽を見せない、そういう役なんでしょうが、いいですね。
そして、マリーをやっているパウラ・ベーアさん、フランソワ・オゾン監督の「婚約者の友人」をはっきり記憶している俳優さんで、この映画では出番が少なく、もうひとつ良さを発揮できていませんが、それでも絶望の中で揺れ動く女性をうまく演じていました。
監督のクリスティアン・ペツォールト(クリスティアン・ペッツォルト)さん、「あの日のように抱きしめて」はもうひとつでしたが、「東ベルリンから来た女」をもう一度見たくなりました。