筒井真理子さんよりも市川実日子さんの「よこがお」が見えてしまう
世界で認められた監督に対して失礼であることも、一観客からの余計なことであることも承知で言いますが、深田晃司監督は初心に帰るべきじゃないかと思います。
丁寧に作られていることは認めますが、全く面白くありません。ネタが火サス的であることはまあいいとしても、なにをやろうとしたのか、結果として何も見えてきません。
おそらく筒井真理子さんを撮りたかったんでしょうが、これまた結果として、筒井真理子さんを凡庸な俳優さんに引き下ろしてしまいました。
「淵に立つ」では大絶賛した筒井さんですので、大いに期待して公開初日に見に行ったことからの反動で言い過ぎ(書き過ぎ)ています(ペコリ)。
少し冷静になって考えてみますと、いくつか面白くない理由に思い当たります。
まず、この映画、相当にドラマなドラマです。ある女性が過去の恨みを晴らそうとするわけですから、まさしく火サス的サスペンスになり得る話です。そうした、物語の語り口が重要なものって、深田監督は得意としているんでしょうか。
この映画、ふたつの時間軸が同時に語られていきます。
半年前、介護士市子(筒井真理子)は、訪問介護に訪れていた家の娘、基子(市川実日子)に裏切られ、生活のすべてを失います。基子には高校時代からつきあっている和道(池松壮亮)というボーイフレンドがいます。
そして現在の時間軸、市子はリサを名乗り、和道の働く美容院を訪れます。計画的に和道に近づき、一夜の関係を持ちます。朝、市子は、和道の携帯を使い、基子に自分の裸の画像を送りつけます。復讐です。しかし、和道は、もう基子とは別れていると言います。
絶望する市子、一度は自殺を試みますが(妄想かも?)、ある時、基子が介護士として働いている姿を目撃します。
脚本も深田監督です。どう考えても、これ、サスペンスにはならないですよね。もちろん大ドンデンがあれば別ですが、そんなことをする監督じゃないことはわかっていますから、かなり早い段階で、基子が裏切ること、その復讐のために和道に近づこうとしていること、全てネタがバレてしまいます。なぜ現在があるのかを半年前の映像で説明しているに等しいです。
そもそも深田監督はストーリーテラーとは思えません。おそらく、それはわかった上でこの映画を作っているのだと思います。じゃあ、何をしようとしたのか?
「演技者としての天才的なセンスを持つ」筒井真理子さんを撮りたかったのでしょう。
この映画、どう考えても復讐の映画です。憎悪のない復讐って、多分ないでしょう。
であれば、結局、筒井真理子さんも、そして深田晃司監督も憎悪を描けなかったということだと思います。
そもそも、基子が市子を裏切った理由は、たとえそれが結果として歪んでいるとしても愛情でしょう。それに市子が気づいていないはずはないのに、映画ではまったく気づいていないように描いています。もしそうならば、この映画の主役は基子にすべきです。人間の不可解さを描くのであれば、不可解な人間が主役になるべきです。この映画の市子は極めて単純です。介護という職業にも迷いはなく、小学生の息子がいる男性との再婚にも迷いがなく、基子に言わないほうがいいと言われて素直に従い、基子に手を握られてもそれと気づかず、女性への復讐はその相手の男と寝ることだと単細胞的発想で男に近づき、それが何の復讐にもならないと思い知らされれば、自殺を試みるという、この人物の何を描こうとしたのでしょう。もしそうした人物を描くのであれば、もっと冷めた人間の見方をするか、絶望的な笑いをとるかでしょう。
俳優が創造すべき領域をシナリオが埋めてしまった、こうも言えるかもしれません。
結局、深田晃司監督は筒井真理子さんの「演技者としての天才的なセンスを」見抜けていないということだと思います。
再度余計なことを言いますが、「東京人間喜劇」「ほとりの朔子」「さようなら」に戻るべきです。
ところで、池松壮亮さん、美容師役に、ん? と既視感があったのですが、「だれかの木琴」でした。それに池松さん絡みで言えば、市子が向かいのアパートで和道を監視するシーンでも、立場は逆ですが「君が君で君だ」を思い出してしまいました。