ファビアン、あるいは堕落について
『飛ぶ教室』『エーミールと探偵たち』『点子ちゃんとアントン』など、子ども向けの原作がよく映画化されるエーリッヒ・ケストナーさんの大人向けの作品『ファビアン あるモラリストの物語』の映画化です。
主演は「コーヒーをめぐる冒険」「ピエロがお前を嘲笑う」のトム・シリングさん、「さよなら、アドルフ」のザスキア・ローゼンダールさん、この二人は「ある画家の数奇な運命」でも共演しています。
1931年ベルリンの閉塞感
1931年のドイツ ベルリンが舞台です。
1918年、第一次世界大戦がドイツ帝国を含む中央同盟国側の敗北で終わり、ドイツはドイツ革命により共和制に変わっています。体制の変化や戦後の混乱も10年ほどで落ち着き始めたようですが、1930年代は、1929年のアメリカの株価大暴落に端を発した大恐慌時代に突入し、ウィキペディアにはドイツでも失業率が40%に達したとあります。
1931年は、そうした社会の混乱を背景に国家社会主義ドイツ労働党(ナチス)が力を持ちはじた時代です。1932年7月の選挙ではナチスが第一党になっていますので、まさしく暗黒の全体主義社会がひたひたと迫ってくるという時代です。
敗戦の屈辱感、その後の他国との軋轢、不況、失業者の増大といったことから不安や閉塞感が社会全体を覆い始め、次第に国家社会主義=全体主義へと傾斜していったということでしょう。
ドミニク・グラフ監督は、およそ90年前のこうした時代を現代に重ね合わせているようです。
現代から退廃的な1931年ベルリンへ
映画は、現代のベルリンの地下鉄駅ハイデルベルガー・プラッツから始まります。カメラが駅のホームから改札を抜け、人々とすれ違いながら地下通路を通り、階段を上り、地上へ出ます。
と、そこは1931年のベルリンです。
という導入から始まるのですが、こうした現代との関わりはこのシーンだけで、映画はすべて1931年の物語です。それにこの移動はカメラが移動しているだけで誰か映画の中の人物の視点というわけではありません。取ってつけたような導入でちょっとばかり残念です。せっかくこうした導入をするのであればもう少し何か考えるべきでしょう。
1931年の物語は、広告会社に勤めるファビアン(トム・シリング)を軸に、恋人となるコルネリア(ザスキア・ローゼンダール)、そして親友のラブーデ(アルブレヒト・シューフ)の3人で進みます。
世の中が息苦しくなれば人は快楽主義的になるということなのか、ファビアンとラブーデも夜な夜な怪しげなクラブに出入りしています。
その快楽主義的頽廃のひとつのエピソード、ファビアンはクラブでイレーネ・モル(メレット・ベッカー)という性欲が異常に強い(ということらしい)女性と出会い、クラブでの濃厚な抱擁の後、その女性の住まいに向かい、いざその先へという時に、女性の夫が登場し、妻と寝ることは構わないがまずは自分の許可がいるみたいなことを言うシークエンスがあります。
で、結局、ファビアンはそのまま帰ってしまうのですが、このモル夫人はその後も2、3シーンに登場し、ラスト近く失意のファビアンが故郷へ帰る際にも、私と一緒にどこどこ(どこだったか?)へ行ってなになに(なんだったか?)をしない? と誘っていました。
このモル夫人、退廃の象徴のような存在として登場しているのですが、なかなか面白いキャラクターで、もう少しうまくファビアンに絡められていればよかったのにと思います。ファビアンを演じているトム・シリングさんが、あまり感情を外に出すタイプの俳優さんではなく、ある種超然として見えるところがあり、要は崩れない人物に見えますので、モル夫人の方にやや浮いた印象が残り残念です。
ファビアン、コルネリア、ブルーデ
ファビアンはクラブのバーテンダーとして働く(違うかも知れない)コルネリアにひと目で恋に落ちます。コルネリアは俳優を目指す法科の学生(だったか?)です。ふたりはその夜、ロマンチックな夜を過ごします。
この映画は、基本的にはこのふたりのラブストーリーです。あるいはまた、ブルーデを含めた青春映画です。もちろん時代が時代ですから輝くような青春ではありませんが、ただ意外にも映画自体にあまり暗さは感じられません。割とさらっとした印象です。時代背景や結末を考えれば、もっと刹那的なニヒリスティクな、もっと身勝手なふたりであればと思います…、がしかし、原作がそうではないのでしょう。美しすぎて熱がない感じです。
ファビアンはタバコ会社のコピーを書いたりしながら作家を目指しており、日々ノートになにかを書き付けています。ある時、上司(経営者?)から解雇を言い渡されます。ファビアンのニヒルさの表現だとは思いますが、なにも反論することなく受け入れています。
ブルーデはブルジョワジーの息子です。割とありがちな快楽主義的な人物に描かれています。学者を目指してある学者(ベルリン大学の教授?)に論文を出しています。
というファビアンとコルネリアとブルーデ3人の刹那的(に見せたいのだと思う)な戯れが描かれていくのですが、今思い返してみても、3時間の映画だった割に印象に残っているシーンがあまりありません。編集もかなりごちゃごちゃしていましたし、メリハリがなかったんだと思います。
ある時、ファビアンの母親がドレスデンからベルリンに出てきます。コルネリアを交えて3人でレストランに出かける際、ファビアンはわずかばかりの退職金をはたいて買っておいたドレスをコルネリアにプレゼントします。
そしてレストラン、そこに大物プロデューサーがやってきます。コルネリアは顔見知りのようです。コルネリアはプロデューサーの誘いを受けテーブルを移ります。ファビアンも誘いますが、ファビアンは母のテーブルに戻っていきます。そりゃそうでしょう(笑)。
ここはなんとも違和感のあるシーンです。
え? コルネリアはそんな大物と知り合いで、そのテーブルに誘われるくらいの俳優だったの? すでに何らかの(つまりプライベートな庇護も含め)誘いを受けていたの? ファビアンとその母親と食事に来ているのにテーブルを移るような人物だったの? ましてやファビアンまで誘うの? と、きりがありません(笑)。
結局、コルネリアはプロデューサーの庇護のもとでのデビューを選択しファビアンのもとを去っていきます。ファビアンはノートに書き付けていたものを、オーディションの際に役に立つだろうとコルネリアに渡します。
破滅は静かにやってくる
後日、ファビアンは撮影所を訪れ、コルネリアのオーディションを見ます。コルネリアはファビアンから受け取った文章を朗読します。プロデューサーや監督(かな?)は感動しています。
これもなんとも奇妙なシーンでした。プロデューサーたちが感動してどうするの? 感動させる相手は見ている我々でしょう、と思いますし、それに字幕もよくなかったのでしょう、意味合いそのものが伝わってきません。
コルネリアからファビアンへのメッセージをファビアンが書いたということであり、そのメッセージをコルネリアがどう受け取りどう読むかということだったんだろうと思います(多分)。
ブルーデが行方不明になります。これもかなり唐突だったように思いますが、とにかく、ファビアンはブルーデの父親とともに探し回り、娼館(かな?)で見つけます。そして、後日、ブルーデは自殺します。大学に提出した論文が却下されたことが直接の理由です。
これも唐突ですが、ファビアンが教授を問い詰めます。教授は却下していない、評価するとのコメントをつけたはずだと答えます。助手の男の策略です。ナチスの党員です。ファビアンはその男を殴り倒します。
そして、ファビアンは失意のうちにドレスデンへ帰っていきます。
コルネリアは俳優として世に出ます。ファビアンはコルネリアに電話をします。コルネリアも幸せではないようです。ベルリンのカフェで会う約束をします。
ファビアンはベルリンに向かいます。その途中、少年たちが湖で遊んでいます。仰ぎ見ますとひとりの少年が鉄橋から飛び込もうとしています。ファビアンはやめろ!やめろ!と叫びますが、少年は思い切って飛び込みます。ファビアンはとっさにズボンを脱ぎ、少年を助けようと湖に飛び込んでいきます。
カフェではコルネリアがファビアンを待っています。
いつまでたってもファビアンは浮かび上がってきません。
コルネリアは店員に毎日3時にこの席を予約しておいてと頼んでいます。
混沌、退廃、刹那…が足りない
児童文学者からなのか、ラストのファビアンのシーンなどは思わぬ展開です。死そのものは、ああそうかと自然に入ってきますが、子どもを助けに湖に飛び込み水死ですか、ブルーデの別荘で3人で戯れているときに泳げない(犬かきはやっていた)と言っていました。
内容的にはもっと濃密で、退廃的で、刹那的な物語にできそうですが、おそらく原作がそうではないのでしょう。それに、時代背景に閉塞感があまり感じられません。失業したファビアンが職安(のようなところ)に並んだりするシーンはありますが、全体を通して世の中の不穏さのような演出が足りません。ファビアンも余裕がありすぎです。超然としていてもニヒルにはみえません。
ところで、原作本のタイトル「Fabian. Die Geschichte eines Moralisten」、邦題「ファービアン―あるモラリストの物語」は出版社の意向で決められたようで、著者のエーリッヒ・ケストナーさん本人は「Fabian oder Der Gang vor die Hunde」、英題は「Fabian: Going to the Dogs」としたかったらしく、映画はそれをタイトルにしています。
ドイツ語が英語と同じ意味合いなら、「ファビアン、あるいは堕落について」ということでしょうか。