CODAの話ではなく、五十嵐大の半生記、あるいは青春放浪記みたいなもの…
コーダ(CODA)という言葉を、またそれが Children of Deaf Adults の頭文字を取った言葉であり、両親、またはそのどちらかが聴覚障害者の子どものことだと知ったのは2022年のアカデミー賞作品賞を受賞した「コーダ あいのうた」です。
「30のこと」ってなんだろう?…
この映画は、両親が聴覚障害者の子どもとして育った、つまりは CODA の五十嵐大さんのエッセイ『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』を原作としているそうです。
「30のこと」って何でしょう。
映画からは五十嵐大さんが「聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた」と思えることは2つくらいしか感じませんでした。原作を読んでみないとわからないですね。
ひとつは聴覚障害者の母親を恥ずかしく思っていた子ども時代の自分が間違っていたことに大人になって初めて気づいたこと、そしてもうひとつは、ろう者の人たちとの食事会でよかれと思って代わりに注文したりすることが逆に差別になりうることを知ったことです。
この2つくらいしか「聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた」ことは感じられなかったです。
この映画のつくりから想像しますと、原作のタイトルの意味は、五十嵐大さんが自分自身の半生を30章に分けて書いたエッセイということなのかもしれません。
生まれたばかりのシーンがあり、まあこれは周りから聞かされた話でしょうが、そこから始まり何人の子役を使っていたでしょうか、乳児、幼児期が2人(だったか?…)、小学生、そして中学生、中学生から吉沢亮さんでした。吉沢亮さんが中学生、高校生、そして成人して東京へ出た青年期を演じています。
CODAの映画というよりも五十嵐大の半生記…
五十嵐大が生まれます。母明子(忍足亜希子)、父陽介(今井彰人)ともに聴覚障害者です。
この乳児から幼児、小学生あたりのパートでは両親のことよりも祖父(でんでん)がむちゃくちゃ立っています。後に大がおじいちゃんは元ヤクザだと言っていましたが、かなり本格的な(?)刺青をしており、男はなにかひとつ自慢できるものさえあればいいんだとうそぶき、自分はバクチだと言っていました。でんでんさん、やり過ぎです。ジャマです(ゴメン…)。
その祖父は母の実の父親です。祖父母と両親、そして大という家族です。
率直なところ、なぜもっと両親のシーンを入れないんだろうと疑問に感じます。とにかく祖父母が立ちすぎです。多分、原作がそうなっているんでしょう。
両親のシーンはと言えば、大が泣いているのに明子には聞こえないために気づかなく祖父母が怒ったりするシーンしかありませんし、陽介にいたってはご飯を食べているシーンくらいしかありません。そのご飯を食べているシーンにしても、両親ふたりが手話で会話しているだけで、幼い大をかまうところも祖父母との会話もなく、とにかく祖父母がうるさいだけの印象しか残りません。
大が成長していく後のシーンでも、明子が台所で背を向けて料理をしているところに大が帰ってきますが、すぐには気づかず、大がぽんと背中を叩いたり、後には電気をパチパチとスイッチで点滅させるシーンばかりです。
なぜなんでしょうね、もっと両親と大の関わりのシーンを入れないとなんの映画かわからなくなります。
やはり五十嵐大の半生記という映画ですね。
両親と大との手話シーンもっと見たかったのに…
大は小学生になり、言葉を発せない母親を恥ずかしいと思うようになります。授業参観にも来てほしくないと言います。
明子にしてみれば無茶苦茶悲しいことだと思いますが、そんなシーンもなくあっさりしたものです。授業参観で友達がはしゃぐシーンがありますが、その時の大の気持ちも描かないの? と思います。
学校から帰ってきた大がいきなり近所のおばさんに鉢植えの花をひっくり返したり荒らしたのはあんたでしょと責められるシーンがあります。あれは一体どういうことなんでしょう? あのシーンで何を伝えたいのでしょう? その時明子が飛び出してきて(何に気づいて飛び出してきたのでしょう?…)一生懸命発声して抗議するものの、そのおばさんは何を言っているのかわからないと去っていきます。
本当に何をしたかったのかまったくわかりません。
一方で、大が手話をできることから数人の同級生がすごい、すごいと大を囲むシーンがあります。大もうれしそうに皆に教えています。ただ、すぐに同級生たちは他の遊びに去っていき、大がひとりぽつんと残っていたようにも思いますので、見せたかったのはそこかもしれません。
大は中学生になります。ここから吉沢亮さんになっています。正直なところ、このあたりから大の年齢とシーンの関係をはっきり記憶していません。とにかく、大が明子に進路相談に来てほしくないと言い、それでも明子と大で進路相談を受けます。あのシーンはきっと大がふてくされているところを見せたかったんでしょう。
このあたりで大と陽介のいいシーンがあるんです。歩きながらのふたりの会話シーンなんですが、陽介が大に東京へ行ったら新宿のどこどこでいちごパフェを食べろと言います。なぜと聞く大に、実はと明子との結婚秘話と明かすのです。もちろん手話でです。
こういうシーンをもっともっと入れればいいのにと思います。
結婚秘話というのは、ふたりはろう学校で出会い、恋に落ち、結婚しようとしたものの親の反対にあい、友達を頼って東京へ駆け落ちしたものの友達と会えずに新宿でいちごパフェを食べて帰ったという話です。
このシーンの今井彰人さんは生き生きしていますし、吉沢亮さんのノリもいいですし、手話での会話もとてもスムーズですし、こんな感じで忍足亜希子さんとのシーンや3人でのシーンも見たかったですね。
結局、シナリオの問題かも…
大が成人してからはもう完全に大の青春放浪記です(笑)。「聴こえる世界と聴こえない世界を行き来」もなく、「聴こえる世界」の話ばかりです。
あ、手話サークルのシーンがありました。
とにかく、特に目的もなく東京に出て、芸能プロダクションか劇団のオーディションを受けたり、出版社の面接を受けたりして、結局パチンコ屋でアルバイトをすることになり、何年かして(2年だったか…)、このままじゃいけないと思ったのか、編集プロダクションの面接を受けたところ、今日から働いてと言われ、持ち前のいい加減さであれこれ適当に乗り越えていきます。
で、ふと思ったのが、その編集プロダクションで働くことになって、大の口から出た話が母親のことや手話ができることではなく、祖父が元ヤクザだということです。それも自慢気に話すってのは、まあそれが原作のものとは言え、原作のタイトルからも、また映画のタイトルからも、ちょっとずれているんじゃないのと思います。
ろう者と健常者の手話サークルに入ったようですが、その経緯とか心の変化とか、なぜとかなんかシーンとして必要じゃないんですかね。
ある時、明子から陽介が倒れたと連絡(メールだったか…)が入り故郷に帰ります。幸い陽介の容態は大変なことにはならず、大は東京へ帰ることになり、明子が駅まで送ってくれます。そして、大は明子が去っていく後ろ姿を見ながら、東京へ出る前に明子と喫茶店で過ごしたある日のことを思い出します。
フラッシュバックです。大と明子が喫茶店で向かい合ってパフェを食べています。話題は陽介から聞いた駆け落ちの話だったと思いますが、その喫茶店を出た後に、明子が大に周りに人がいるところで手話で会話してくれてうれしかったと言います。
大は感傷にふけりながら明子の後ろ姿を追っています。
え? あの頃の大はふてくされて明子にあたったりしていた時期じゃなかった? と思ったわけです。なぜ今のシーン、つまり東京へ帰る前に寄った喫茶店ではまずいんですかね。
なんだかちぐはぐな流れです。結局のところ、シナリオの問題じゃないかと思います。
「コーダ あいのうた」のようにはいかなかったようです。