この映画は「安倍公房」的ではなく「石井岳龍」的なるもの…
「“あの”悲劇から27年―」ってなんのことかと思いましたら、そんなことがあったんですね。
映画化してはいけない原作…
「箱男」映画化の企画は、27年前の1997年に一度日独合作で製作が始まったもののハンブルクでのクランクイン前日に日本側の資金難で製作中止になったとのことです。
1997年といいますと、山一證券や北海道拓殖銀行が経営破綻した年であり、そうした金融危機的状況の影響だったのかもしれません(未確認です…)。バブル崩壊後の失われた30年が始まる時代です。
といった時代状況から考えても、やはり1997年に撮るべき映画だったんじゃないかと思います。
映画としては面白いのですが、今の時代に響く映画になっているかといいますとかなり疑問を感じます。それに映画化には向いていない原作だと思います。要は、映画にするには原作が複雑すぎるということです。
それに、匿名性、透明性、見る見られる関係なんて言葉は現代にこそ意味のあるものなんですが、如何せん、それをビジュアルとして「箱」にしてしまいますと、それでもう一気に現実感を失ってしまいます。小説の中であればおかしなことも現実に結びつきますが、おかしな現実(映画も実体験という意味…)はスクリーンの中から出られません。
実際、登場人物は皆おかしな奴らばかりなんですから、それを映像化して実像として見せられればますまず気持ちは現実から遠ざかっていきます。
やるなら映画ではなく舞台化でしょう。そもそも次々に変わるシチュエーションや語りの主体といった構造は舞台向きです。
原作に近づけようとの苦労がマイナスか…
ただ、おぼろげな記憶ではありますが、描かれている各シーン(あくまでも各シーン…)は原作に忠実に作られているような気がします。
ざっとした物語は以下のような感じですが、物語自体にあまり意味はなく現実的な辻褄が合っているわけでもありません。そういう話です。
箱男の僕は元カメラマンであり、箱男となった今は「完全なる孤立、完全なる孤独」とうそぶきながらダンボールを切り抜いた穴から世の中を覗き見ています。
まあそれも女性の足ばかりなんですが(笑)。
体中にワッペンを貼り付けたホームレスから襲われたり、偽医者に雇われた(多分…)探偵(かな…)に写真を撮られたりし、そしてある日、その探偵にライフル銃で撃たれて怪我をします。偽看護婦(師…)が箱男のもとにやってきます。ダンボールにお金を差し入れて、いい医者がいるからといって消えていきます。
箱男は偽看護婦に従い偽医者の治療を受けます。偽医者は医師免許をもっていませんが、軍医の診療所で医師を名乗っています。軍医は性的倒錯者です。偽看護婦を裸にして視姦したり、自らに浣腸をさせたりします。また、安楽死を望んでいるらしく遺書を書いています。偽医者はその遺書を自分の都合のいいように(というかよくわからない…)書き換えています。また、偽医者は箱男になりたいとも思っており、箱男から箱を奪おうとしています。
といった設定で話は進み、箱男と偽医者の格闘があったり、軍医が死体で発見されたり、箱男の箱がグシャグシャに壊されたり、裸になった箱男と裸になった偽看護婦が抱き合ったり、そしてついに箱男となった偽医者は混乱のうちに(よくわからないけど…)すべてを転換させるためには世界を箱に入れればいいのだと気づき、偽看護婦と二人で診療所の窓という窓にダンボールを貼り付け、しかし、その時偽看護婦はその「箱」から去っていくのです。
というようなことだったと思います(笑)。
見え隠れする昭和的ジェンダー…
箱男(永瀬正敏)、偽医者(浅野忠信)、軍医(佐藤浩市)は非現実的な存在です。物語的にもそうですし、映画的にもそのように作られています。それぞれ俳優が映画の中の役を演じています。
しかし一方、偽看護婦(白本彩奈)は「“わたし”を誘惑する謎の女・葉子」という非現実的存在の設定ではあっても、映画的には「白本彩奈」として映画の中に存在しています。
つまり、この映画から見えてくる最も顕著なことは、安倍公房的世界ではなく、現実的な「女」と妄想に生きる「男」、言い換えれば、ある種昭和的なジェンダーだとも言えます。
ただ、それは安倍公房的なものではなく、石井岳龍的なものなんだろうと思います。
白本彩奈さん、初めて見る俳優さんです。人間としての存在感はありますが、俳優としての幅の広さという意味ではまだまだこれからの俳優さんと感じます。でも主役を演じられる俳優さんだと思います。
ということで、映画としては、今撮るべき映画ではなかった、ではなく、このテーマを今撮るのであれば、「箱男」にこだわる必要はなかった映画ということです。