波紋

波紋というより復讐劇、それに差別と理不尽なことへの怒りとは違う

かもめ食堂」「彼らが本気で編むときは、」「川っぺりムコリッタ」の荻上直子監督です。どういう映画を撮る監督はもうおおよそ想像がつきますので、この映画に対する興味はどちらかといいますと筒井真理子さんです。

波紋 / 監督:荻上直子

荻上直子監督、イメチェンを狙う?

え? これ、荻上直子監督じゃないじゃん?!

って、映画でした。筒井真理子さんはどんなんでしょうと見ていましたら、そもそもの映画が荻上直子節じゃないんです。この映画を監督名を伏せて見せられたら荻上直子監督とは思わないです。

ファンタジー感ゼロ。美味しそうな料理も出てきません。

と、ふーん、どうしちゃったんだろうと見ていたんですが、それもしばらくであり、よーく考えてみましたら、これまで私が見てきた映画はファンタジー感が「陽」の方に出ていただけで、この映画では「陰」の方にファンタジーしているということじゃないかと思えてきました。

確かにほんわかもしていませんし、いい人も出てきません。しかし、その設定や人物像のファンタジー感はあまり変わりません。悪い人やその人間関係がファンタジーということです。

荻上直子監督、いい人ばかりを描くことに疲れたのかも知れません。

波紋というよりも復讐劇

2011年の東日本大震災直後、3月13日の日曜日と思われます。依子(筒井真理子)、修(光石研)、息子拓哉(磯村勇斗)の家族の朝、テレビでは福島第一原子力発電所の事故の様子が中継されています。修は不安そうで落ち着きがなく、庭に出て花に水をやろうとホースを手にしたまま立ちすくんでいます。

依子はおかゆをつくり、寝たきりの父親(修の…)に与え、そして皆の食事の準備し、拓哉に父親を呼ぶように言います。庭や部屋を探した拓哉がいないよと言います。依子が庭に出てみますとホースから水が出っぱなしのまま修だけがいなくなっています。放射能が怖くてひとりで逃げたようです。

やっぱり、ファンタジーでした(笑)。現実的ドラマではありません。現実にはありえないだろうということを、なるほどと思わせないでやってしまうのはファンタジーです。もちろんそれも物語を語る上での手法なんですから否定しているわけではありません。

10年後(くらい…)、突然修が戻ってきます。そして、自分はがんだから助けてくれと言ってきます。

さて、依子はどうするかという映画です。タイトルを「波紋」としているわけがよくわかりませんが、この後依子がなにか行動を起こす度にその相手に何らかの影響を与えていくということの意味のようです。ただ映画で実際に行われることは修への復讐ですのでそれを「波紋」というのはちょっと違うように思います。波紋が描かれているわけではなく依子の行為と結果が描かれている映画です。

これは自分を捨てていった夫への復讐劇です。

そして、筒井真理子さんは…

脚本も書いている荻上監督の基本プロットは、依子は夫の理不尽な行いを長く宗教に依存することで押さえてきたけれど、夫の帰還によって徐々にその堰がきれはじめ、ついには職場の同僚である水木(木野花)の誘導によって決壊するというものじゃないかと思います。

ただ残念ながら、堰が徐々にきれはじめる部分で筒井真理子さんの演技が曖昧になっており、依子が何を考えているのかはっきりせず、そのプロット自体も曖昧になっています。台詞も極端に少なく依子としての意識を持続できなくなっているように感じます。筒井真理子さんは見えるけれども依子が見えないということです。

どこでしたが、息子の拓哉が依子に父親が出ていったのは放射能が怖かったからじゃなくお母さんのせいだと言うシーンがあり、台詞が多ければ言葉の綾ともとれますが、台詞が少ないとどうしても際立ちますので、基本プロットもますます混乱します。え? どういうこと? と思います。

とにかく、映画が描いていない背景としては、依子は修の突然の出奔後、その悶々たる気持ちを鎮めるために「緑命会」という新興宗教に入っています。息子の拓哉はそれを嫌って遠く離れた九州の大学に入りそのまま就職しています。ひとり住まいとなった依子は庭を枯山水の石庭にしています。

こうしたところに修が帰ってきます。修は悪びれることなく以前と同じように横柄に振る舞います。依子は何を咎めることもなくすべてを許しています。

このあたりの筒井さんの演技がまったくわからないんですね。従順というわけでもなく、なにか言いたそうでもあり、ほとんど台詞がありませんので表情で演技することを求められているんでしょうが、とにかく曖昧すぎてよくわかりません。そもそも、宗教に依存するほど弱くは見えませんし、あの集会での立ち振舞もプールへ行くこととほとんど変わりません。

修は、がんの治療に1クール450万円の未承認薬を使わないとよくならない、父親の遺産があるだろう、助けてくれとすがってきます。依子は遺産はすべて自分に残すように遺書を書いてもらったと突き放します。

徐々にきれはじめた堰に最後の一撃を加えるのはスーパーの同僚水木です。水木は、更年期障害で苦しむ依子に私もそうだったと話しかけ、気を許した依子が修のことを話しますと、男なんでどうしようないんだからやっちゃいなと焚き付けます。

で、修への復讐劇はとりあえず置くとして、もうひとつ、復讐とは言えない些細な(映画の話…)出来事があります。依子が働くスーパーに毎回商品に傷がついているから半額にしろと言って店員を困らせている客がいます。前半に他の同僚が苦しめられるワンシーン、そして依子自身が同じようにやられるシーンがあり、その後、水木とのやり取りがあり、そして、再びその客が依子のレジにやってきたときには、半額にしろ、お客様は神様だろと怒鳴る客に、依子ははっきりと、はい、半額にしますと答え、さらに私の夫はがんです、神様なら夫を助けてくださいと言い返します。客はすごすごと去っていきます。

わかりやすいファンタジー劇です。こうした映画に突っ込むことではありませんが、この客の行動はいつからなのか、これまではどうしていたのか、店として対策を取るべきことじゃないのか、個人の判断で半額にしていいのかなどなど疑問が次々に出てきます。映画のためだけに考えられたことだということです。くどいようですが批判ではありません、そういう映画ということです。

差別と理不尽なことへの怒りは違う

この映画には、見えにくいのですがとても気になることがあります。

すでにこの映画は夫への復讐劇であると書きましたが、もうすこし大きなくくりで言いますと、依子が抑えてきた本音を隠すことなく表に出していく、つまりは心が開放されていくという描き方もされています。

その表現が夫への復讐であり、職場での客への反撃、いわゆるカスハラに対して言ってやった!みたいな感じの開放感が描かれています。

息子の拓哉が出張を機に家に帰ってきます。拓哉は一緒に暮らしているという珠美(津田絵里奈)を連れてきています。珠美は聴覚障害者で明瞭に発音できない言葉には手話を使います。依子はどこか落ち着きません。拓哉は依子に珠美を東京案内に連れて行って欲しいと言います。

東京スカイツリーからの景色に陽気にはしゃぐ珠美にも浮かぬ顔の依子です。そして、その帰り、依子は珠美に「拓哉と別れてください」と言います。

障害があるからということです。水木を前にしてはっきりとその気持ちを吐露し、さすがの水木を呆れさせていました。映画で差別的なことを描くこと自体は否定しませんが、この映画は理不尽な夫や客への復讐と珠美への差別的感情を同列に描いています。

差別と理不尽なことへの怒りとは違います。

もし、この映画がすでに書いた基本プロットよりも、さらに人間の心の闇に迫ろうとした、つまりは人間の奥に潜んだ黒々とした悪意を描こうとしたということであれば、映画はそこに迫れていないということです。

さらに、依子が立ち向かおうとしている社会に本音をいえない社会というものを想定しているのであればなおさら問題です。

ダークなものの扱いには気をつけて…

結局、依子は修の治療にお金を出すことにします。修が点滴を受けるそばで依子は30万、35万、40万と呪い(笑)のようにつぶやいています。

ある日、依子が仕事から戻りますと、石庭に修が倒れています。駆けつけた依子は迷います。修はまだ息があるようです。その後依子がどうしたかは映画は語りませんが、とにかく修は死にます。

この映画はこうした最後の決断をあえて描かない手法をとっています。珠美との件でも、別れてくれといった依子に対して、珠美は笑いながら、拓哉から母親は別れてくれと言ってくるに違いないことは聞かされていると言い返すわけですが、その後依子は珠美をどこかへ連れていきます。その夜、帰ってきた珠美はどこか元気を失い気落ちした様子です。依子は勝ち誇ったような表情です。

依子が入信している宗教の集会かリーダーのもとに連れて行ったということだとは思いますが、何があったか、そしてその後珠美と拓哉がどうなったかを映画は明らかにしていません。

葬儀の日です。修の棺が葬儀社の係員たちの手で家の中から石庭を通って出されてきます。飛び石を渡るのは大変です。係員がバランスを崩し棺はひっくり返り、石庭に修の死体が転げ落ちます。依子が大笑いし始め、いつまでも止まりません。

葬儀が終わったのでしょう。雨が降っています。拓哉が帰っていきます。ひとりで来たということは珠美とは別れたことを示しているのでしょうか。見送りの依子に拓哉が言います。以前やっていたフラ…、フラ…、フラダンス、ああ、フラメンコだ、あれ始めたらと言って帰っていきます。

わざとらしいフリ(笑)というのは置いておいて、ひとりになった依子が石庭でフラメンコを踊り始め、そしてついには表に出て決めポーズをとり、オレ!と終わります。

このフラメンコ、結構力が入っていたようで、何回かフラメンコの公演を見た程度の経験ですが、よく踊れていたと思います。ただ、雨が降っているのに青空で陽がさしていましたからもったいなかったですね。

ということで、やはり荻上直子監督はほんわか系のファンタジーな映画のほうがいいと思います。ダークに徹しきれないダーク(的)ファンタジーではいいところがありません。それに危険です。