花束みたいな恋をした

あるある型映画、傷つく恋愛映画は好まれない

公開時(まだ今年のはじめだったんですね)、菅田将暉さんの映画ということでどんな映画だろうと映画.comを見たときに、かなり評価が高い上にちらっと見たレビューから「リアル」という言葉が飛び込んできたがために記憶に残っており、DVDで見てみました。

花束みたいな恋をした

花束みたいな恋をした / 監督:土井裕泰

説明モノローグにびっくり!

二十歳くらいの男女が、学生時代に出会い、付き合うことになり、一緒に暮らすことになり、そして別れるという恋愛映画です。それだけの映画です。

この世の映画の7、8割は恋愛映画じゃないかなあと思っているくらいですので、この設定自体には驚きませんが、それでもこの映画、とにかく麦(菅田将暉)と絹(有村架純)のふたり以外のシーンはありません(あったかなあ?)。

それで2時間の映画を作ってしまうんですからそれはそれですごいのですが、それ以上に驚いたのは、ふたりのそれぞれのその時々の心情をモノローグナレーションですべて説明してくれるのです。

なにも考える必要はありません。麦は何を考えているんだろう? 絹はどう思っているんだろう? そんなあれこれ考えながら見る必要はありません。頭の中を空っぽにしてぼんやり画面を見ていればすべてわかります。

没入型ではなく、あるある型映画

映画の見方は人それぞれですが、割と多いケースは登場人物に感情移入する没入型ではないかと思います。

この映画を見ていてもおそらく感情移入はできないでしょう。感情移入できるのは言葉では説明しきれない何か感じるものがあって成立するものだと思います。人物だけではない、物語だけではない、映像だけでも音楽だけでもなく全体として何か伝わってくるものがあり、いつの間にやら人物であるのか、物語であるのか、映像や音楽なのか、わけがわからず引き込まれていくのが映画です。映画の力だと思います。

この映画にはわからないところがありません。いやいや、わからないことはあるのでしょうが、すべて言葉にしてくれますのでわからないことが見えません。わかるものは客観視できます。客観視できるものには没入できません。

なんだか理屈っぽい話になってしまいましたが、結局、この映画を飽きずに楽しく見られるとすれば、それは、ああ、こういうことあるある、あるいはあったあったとやや突き放しつつ、もしあったという人であれば切なさをもって、もし未経験であればかすかなあこがれをもって見られるのだと思います。

という、あるある型の映画です。

傷つく恋愛映画は好まれない

この映画にも別れはありますが、修羅場などになるはずもなく「楽しかったことだけを思い出にして別れよう」と言っています。

そして、5年前の自分達の幻(凛と亘)をみて涙するのです。たまらず店から飛び出す絹、後を追う麦、そしてふたりは別れの抱擁をします。

カメラがゆっくりとやや斜め上にパンします。するとそこには「jonathan’s」のネオンが…、オイ、オイと思いますが、これ、多分広告の意図だけじゃないですね。何でしょう、つくり手の照れですかね。

それはともかく、なんと、このふたり、その後も適当な物件が見つからずそのまま3ヶ月一緒に暮らしたということです。

こういう恋愛なら楽でいいかもしれません。

この3ヶ月と、ファーストシーン、そしてそれに続くラストシーン、お互いに片手を上げてなおもふたりの心はつながっているというこの件こそ、この映画のつくり手の男たち、脚本坂元裕二さんと監督土井裕泰さんの強い願望の現れでしょう。

菅田将暉さんと有村架純さん

ふたりとも嫌味なくうまいですね。

菅田将暉さんは間を埋めることがうまい俳優さんですので何をやってもうまくはまります。間を埋めるという言葉ですといい意味に取られないかもしれませんが、ちょっとした表情や言葉の間合いで気持ちの流れを自然に表現する俳優さんです。

映画を見ている限りですが、なにか天性のものがあるのでしょう。まもなく30代、そろそろ俳優として新しい境地を見つけないといけない時期に入っているとは思います。

有村架純さんは「何者」しか見ていませんし、その映画も佐藤健さん以外すっかり忘れていますので初めて見るなあと思って見ていました。

何者

何者

  • 佐藤健

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