春原さんのうた

その時生きている空間をその時の出会いで撮った映画

ホームビデオみたいな映画です。だからといってダメというわけでもありませんが、さすがにこれを2時間見続けるのはつらいです。

春原さんのうた / 監督:杉田協士

なにがホームビデオ的なのか?

ひとことでいいますと、映画を撮っている人の、ここでは杉田協士監督ですが、その人のなにかを伝えたいという意志が不特定多数の鑑賞者に向かっているようには思えないということです。

ホームビデオは、その撮影者にとって意味のあるものをその撮影者の心の中のストーリーで撮っていけばこと足ります。そして、そのストーリーを共有できるものが見ればそれで完結します。たとえば、子どもの成長記録を撮ったホームビデオはその子どもに思いを持つものが見れば、その子どもが誰であり、どういう状況下にあるかなどを、その映像の中で描かなくても楽しめますし共有できます。

しかし、不特定多数の鑑賞者になにかを伝えたいと思いますとなかなかそうはいきません。多くの場合、映画とはそういうものだと思いますが、やはり、登場人物の人物像やバックボーンを俳優の力を通じて描き、ストーリーや物語の語り口に趣向を凝らして説明ではなく感じるものとして提示し、それら全体を通して映画の主題を伝えようとします。

この映画にはそれがありません。意図的に排除しているのか、あるいは、そもそもそうした次元とは別のものなのかはわかりません。

私がこの映画を見る前に事前情報として得ていたのは上映館の紹介文だけであり、その記憶として残っていたのは主人公の女性の喪失感が描かれるみたいなことだけで、見終えてみても、その紹介文を読んでいなければ、その女性の喪失感さえ感じられたかどうかも自信がありません。その女性の人物像もバックボーンも全くわからなかった(感じられなかった)ということです。

杉田監督のインタビューを読んで思うこと

とはいえ、やはりこれはどういう映画なんだろうと興味はありますので杉田監督のインタビュー記事を読んでみました。

脚本は人も場所もあて書き

インタビューの初っ端に監督の言葉として

私にはもともと、映画を作ることへの欲望があまりないんです。映画の題材を溜めておいて、作る機会を待つといったこともありません。

(nobodymag)

とあり、この映画を撮るきっかけが主演の荒木知佳さんとの約束であり、撮ることを決めた段階で東直子さんの「春原さんのリコーダー」の短歌が閃いたということらしいです。

そして、次のくだりが面白いのですが、

次に考えたのは、誰が荒木さんの隣にいるかなということでした。そこでまっさきに新部聖子さんの顔が浮かびました。

映画の中の人物をイメージするのではなく、現に存在する人物から次の人物への想像を広げていくということのようです。同じようにしてそれが空間として広がり、ロケ地が決まり、じゃあその場所にやってくるのは誰が似合うかということで他の人物が決まっていくと語っています。「脚本は人も場所もあて書き」と言っています。

私がホームビデオのようと感じたのもあながち間違っていないようです。

映画も写真

続いてロケ地の話をしており、映画も写真であり、その瞬間をとらえたものでしかなく、この映画は2020年のその時のものだけれども、仮に今撮ればまた違ったものになると語っています。

あまりインタビュー記事にこだわりますと記事の紹介のようになってしまいますので、もうひとつだけ印象に残ったことを引用しておきます。

すでにこの世界は十分に色々なもので満ちてて、究極的に言えば映画も誰かが撮る前から、すでにそこにあるものだと思ってるところがあります。たまたまカメラをそこに置くと映るもの。置かなくてもあるもの。誰かが置かないと、そこに映画があると気づかれないもの。だから意図というよりは、「ここにこれあります」という、自分が出会って発見したものたちを記録してるような感覚なのかもしれないです。

なるほど、そういう映画なんですね。

観客のような杉田監督

このインタビュー記事を読んで感じたのは、杉田協士監督は人や場所との出会いのイメージを映画という器の中で広げていく、あるいはつなげていく方なのかもしれません。そしてその器の中で何かが起きる瞬間をある確信を持って待っているのだと思います。

ある意味では観客のような目線で対象を見ているのかもしれません。映画に意志が感じられないのはそのためでしょう。

その時生きている空間をその時の出会いで撮った映画

おそらく、主演の荒木知佳さんは映画の中の人物沙知を生きようとは思っていないと思います。

私には沙知がパートナーと別れて喪失感の只中にいるとは感じられませんでしたし、まわりの人々がその沙知を放っておくと消えて無くなりそうだと思い、あれこれ構いに来ることも不思議でなりませんでした。

それは私にとって沙知は他人だからでしょう。しかし、映画の中の人々、もちろん杉田監督にとってもよく知った沙知です。そういう映画なんだろうと思います。

杉田協士監督が、その時生きている空間をその時の出会いで撮った映画ということだと思います。