フタリノセカイ

ファンタジーだが、新鮮な感覚を感じる

身体的性と性自認が一致している女性ユイとFtMトランスジェンダーの真也の10年にわたる恋愛を描いた映画です。

いやあ、面白かったです。社会からの偏見や差別という視点ではなく、それこそユイと真也の「フタリノセカイ」に絞って描いていますのでとても新鮮な感じを受けました。

フタリノセカイ / 監督:飯塚花笑

愛はシンプルなもののはずなのに

ユイも真也も身体的には女性ですのでふたりの間に血縁関係のある子供は生まれません。しかし、ふたりは子どもを持つことを望んでいます。そして、子どものいる家族という形を望んでいます。そのふたりの出会いから10年間の物語です。ただし、映画の最後でも望みは叶えられていません。

映画のつくりは、ふたりの関係が大きく変化する時点をポンポンポンと飛んで描いていきますので、10年という時間経過はあまり感じられませんし、さほど細かくその時々の心情が描かれているわけではありません。ただ、全体としてみれば不思議とふたりの気持ちがよく伝わってきます。

ふたりは強く愛し合っているのにただそれだけでは何かが満たされないということです。

シスジェンダーの男女の場合でも身体的な問題による不妊というケースもありますので一概には言えませんが、一般論で言えば、子どもを持つ持たないはふたりの意思によって選ぶことができます。しかし、ユイと真也にはそれができません。その葛藤の10年ということです。

できないから、よりそれを望むということもあるのでしょうか、ユイと真也の「家族」や「子ども」というものへの思いはかなり強いようです。愛はシンプルなもののはずなんですが、そうならないのはこうしたふたりが置かれている社会的な状況ということもあるんだろうと思います。

映画のつくりはファンタジー

ユイと真也、付き合い始める

ユイ(片山友希)は保育士、真也(坂東龍汰)は母親とともに弁当屋をやっています。最初のシーンは、真也が保育園へやってきて子どもたちに囲まれて楽しそうにしているところをユイが見つめるというシーンですので、それが出会いなのか、すでに付き合い始めている状態なのかよくわかりません。

真也の住まい(だったと思う)でふたりがキスをしています。次第にセックスへの流れという感じですが、突然真也が中断してしまいます。戸惑うユイ(ですが、あまりそういう感じはないというか、そういうシーンがない)です。

ある日、真也が幼なじみの親友と飲んで酔いつぶれて病院に担ぎ込まれます。ユイが駆けつけますと病室には「真也」の名ではなく女性名が表示されています。

この時、友人がその理由を話したのか、あるいはそのシーンもなかったのか、はっきりした記憶はありませんが、とにかくユイはこのことに驚いたり、なにか行動を起こしたりはしません。これが、この映画の特徴なんですが、トランスジェンダーが特殊なことであったり、このふたりが奇異なもののように見る視点はこの映画には全くありません。一緒に弁当屋をやっている真也の母親も、真也の親友も、その妻も、皆極めて自然な対し方で接しています。

また、ユイの同僚たちも真也がトランスジェンダーであることを知っているのか知らないのか、そのこと自体を問題にするシーンもありません。ただ、ひとりだけ恋愛やセックスなどの話をあっけらかんと話す同僚を置いています。その同僚とは、口調は下世話ではありますが、真也とのことをセックスも含めて気楽に話していました。

ユイと真也、一緒に暮らし始める

ふたりは一緒に暮らし始めます。真也はユイに、今はホルモン療法をしているところであり、お金をためて乳房切除、子宮卵巣摘出、陰茎形成の手術をして戸籍の性別も変えれば結婚できると話しています。

ある日、真也がユイにプレゼント(指輪だったか?)を買ってきます。ユイは、結婚のためにお金を貯めるんじゃないのと気色ばみます。映画ではこのワンシーンだったと思いますが、おそらくこうしたことが幾度かあったのでしょう、ふたりは別れます。

ふたりは別れ、ユイは結婚する

時は流れ(そんな感じ)、ユイはシスジェンダーの男性と結婚します。子どもが欲しいと言い、妊活に励みます。しかし子どもは出来ません。

一方の真也の方は、ゲイバー(かな?)で知り合った俊平(松永拓野)と親しくなり、引退した母親に代わってふたりで弁当屋を続けています。

ユイと真也が再会します。そして再び付き合い始めます。それがユイの夫にバレます。真也はユイの夫に強請られてためていたお金をすべてとられてしまいます。それを知ったユイが取り返してくる!と言いますと、真也は、これ、不倫だよと静かに言い返します。

ユイと真也、再び暮らし始める

ユイは離婚し、ふたりは再び一緒に暮らし始めます。ふたりの「子どものいる家族」への思いは強く、子どもを持つ決断をします。それは、俊平から精子をもらうことです。

俊平を前にして、ふたりは子どもを持ちたいとその思いを熱くかたり、そのために俊平の精子が欲しいと訴えます。三人で家族になりたいと訴えます。俊平が、そしてふたりも涙を流しています。

人工授精かと思っていましたら、ユイと俊平が性交するということでした。そのシーン、ユイと真也は手を握り合っていました。

妊娠はしたのですが、流産だったようです。何も語られませんし、ユイのおなかが大きくなっていたのに、その後子どもは生まれなかったという簡単な描き方です。

そして、ユイと真也と俊平は新な決断をします。それは、真也が子どもを生むことです。真也が俊平と性交をするシーンで映画は終わります。

視点や発想の違いに驚く

という、新鮮といっていいのか、わからない感覚のことなので、へぇー、そういうふうに考えるかという驚きの視点や発想で撮られた映画でした。

子ども、家族への執着

今では、結婚を選択しない生き方や結婚してもディンクスという生き方もある時代ですが、この映画のユイと真也は子どもを持てないとふたりの関係が壊れてしまうといった強迫観念に取り憑かれているようにも感じてしまいます。

もちろんこれは映画ですので、トランスジェンダーの人がすべてそうだと言っているわけではないでしょうし、飯塚花笑監督にそうした思いがあるかどうかもわかりませんが、少なくとも映画はそれを肯定的に描いています。

差別、偏見を描かないこと

これは当然意識的に行われているわけで、それゆえ、子どもや家族への執着が目立ってしまうわけですが、まあ考えてみれば、いやいや、考えなくてもですが、本来社会はこうでなくちゃいけないということでしょう。

人工授精ではなく自然受精を目指すこと

これもあえてやっていることでしょう。タイトルを「フタリノセカイ」と、カタカナにしていることは、俊平を含めた「家族」というつながりを逆説的に言っているのかもしれません。