ヒンターラント

表現主義的、絵画的ヴィジュアルで描かれる1920年の悪夢的ウィーンの街…

なぜ邦題を「ヒンターランド」ではなく「ヒンターラント」としているのかと思い、ドイツ語の発音を調べてみましたら、確かに「ラント」のほうが近いですね。ドイツ語のオーストリア映画ですので、おそらくそうした理由からでしょう。

ヒトラーの贋札」のステファン・ルツォヴィツキー監督です。2007年の映画でしたので日本ではその後15年間一本も公開されていないことになります。

ヒンターラント / 監督:ステファン・ルツォヴィツキー

ブルーバック撮影で描かれる悪夢的ヴィジュアル

なにをおいてもこの映画のおもしろさは絵画的ヴィジュアルです。日本のポスターはアニメのようにデフォルメされていますが、オリジナルはこれです。

暗然たるウィーンの街並み、傾いた建物、濡れた石畳、傾斜した室内、そうした悪夢的に歪んだ空間の中で物語は進みます。どのシーンも一枚の表現主義の絵画のようです。

それもそのはず、この映画は全てブルーバックで撮られているそうです。俳優がブルー一色の背景の前で演技し、VFXで背景を入れるクロマキー技術です。ブルーバックですから全体に暗い色調になっています。

第一次世界大戦終結直後の1920年のウィーンが舞台ということからの選択なんでしょう。いや、逆でしょうか、全編ブルーバックで撮ることが第一義的なことだったのかも知れません。

それほどにこの手法が効果を上げて成功してます。敗戦後の厭世的な、刹那的な感じがよく出ています。ブルーバックですと俳優の動きはかなり制限されますし、俳優自身も集中力を持続させることが難しくなると思われますが、それを細かいシーン展開と大仰な音楽を使い重厚に仕上げています。

という映画ですので、物語の軸となっている猟奇殺人というミステリー自体はさほど重要なものではなく、ほぼ全編で示される悪夢的な空間が、長く戦争、そして捕虜として生きてきた帰還兵ペルクの内面でもあるという映画かと思います。

ラストシーンとなっているペルクが妻と子どもを訪ねるシーンはウィーンの街とは明らかに違う印象です。ペルクがそうした暗闇の世界から開放されていくことを示しているのだと思います。

猟奇殺人は戦争が生んだ歪んだ復讐劇

映画の軸であるミステリーは、戦争という極限状態が生み出した歪んだ復讐劇です。

オーストリア=ハンガリー帝国の中尉ペーター・ペルク(ムラタン・ムスル)とその部下たちが、2年間のロシアでの捕虜収容所生活から解放されてウィーンに戻ってきます。

ウィーンの街はすっかり様変わりし、帝国のために戦った彼らを称えるどころか、行くあてのない彼らを蔑むかのように支援施設に行けと冷たく突き放すだけです。ペルクも我が家に戻ってみれば、妻と子どもの姿はなく、家政婦(のような女性…)によれば、ペルクが消息不明となった後、妻は誰かの援助を受けていたらしく、現在は田舎暮らしをしているとのことです。

殺人事件が起き、死体の所持品からペルクの名が記されたものが見つかります。担当刑事セヴェリン(マックス・フォン・デル・グローベン)はペルクを容疑者として調べ始めますが、実はペルクは元刑事であり、それも数々の難事件を解決した敏腕刑事だったのです。

その後、第2、第3の殺人事件が起き、それをペルクが解決していくというのがメインストーリーです。

殺人は猟奇殺人です。死体には杭のようなものが何本も差し込まれていたり、生きたままネズミに足を食い散らかされたり、バラバラにされて氷詰めにされていたり、それら全てに19(多すぎる…)という数が暗示されています。もちろん、これがメインストーリーですのでペルクがその謎を解き明かしていくことが映画の見所ではありますが、ただ、その謎解きにもストンと落ちる爽快さはなく、むしろそうしたことよりも、戦争、あるいは過酷な捕虜生活という状況下に置かれた人間の弱さみたいなものが浮かび上がってくる映画ではあります。

選択を迫られるが、正しいものがない…

上にはペルクが謎を解き明かしていくとは書きましたが、実際にはそうではなく、ペルクには事件が起きたときからわかっていたというつくりになっています。

ですので、謎は終盤になりすべてペルクの台詞で語られます。

ロシアの捕虜収容所では脱走者が出た場合にはその何倍かの残された捕虜たちに拷問(殺害だったか…)を課すといった卑劣な手法がとられていたということです。また、捕虜たちは20人の委員会によって統率がとられていたらしく、ある時、委員会は捕虜の一部に脱走計画があることを知ったものの結論を出せずにいるうちにそのうちのひとりが密告して脱走を計画していた者たちが殺害されたということです。

この連続殺人は殺害を免れた捕虜による委員会のメンバーへの復讐ということです。19という数字の持つ意味は、20人のうちの最後のひとりであるペルクを追い詰める意味合いに取れましたが、そもそも映画の中で起きる殺人は3件ですし、密告したのがペルクかどうかもはっきりしていません。そのあたりも結局のところ、この映画が語りたかったことはそうした謎解きではなく、密告しなければ何十人もの捕虜が殺され、密告すればそのものたちが殺されるというときに、正しい選択などあり得ないということなんだろうと思います。

戦争というものはそうした人間の理性が及ばない領域を生み出してしまうものです。

表現主義は物語のベタさを打ち消せたか…

物語にはかなりベタさも目立ちます。映画なんですからやむを得ないところもありますが、夫婦、兄弟といった真っ当な価値観で悪夢に立ち向かおうとしています。

結局、連続殺人犯はペルクのよく知る捕虜だった人物であり、かつ担当刑事セヴェリンの兄です。ペルクは早い段階でそれを知り、また、セヴェリンがまだ帰還せず行方しれずの兄を探していることを知ったために、セヴェリンには兄は勇敢に戦って死んだと嘘を言います。さらに犯人を追い詰めたときには、セヴェリンに来るな!と言い、自分一人で決着をつけようとします。そんなことをしても結局最後にはわかるんですけどね。

捜査過程で女性検視官ケルナー博士(リブ・リサ・フリース)を登場させています。男たちが戦争へ行ってしまったから女の私が昇進したというおもしろい台詞で登場していましたが、予想通り、またパターン通り、この女性もペルクと愛し合う役割を担わされています。

そして、妻です。登場シーンはペルクが田舎の住まいを訪ねたときの引いた画の2シーンしかありませんが、最初から結末を予想させる展開ではあります。

ペルクが戻った時、住まいの家具には白布がかけられ人の気配はありません。ペルクは妻の反対を押し切って出征したという後悔を持っています。床は傾き(ヴィジュアルがという意味…)ペルクは滑り落ちそうなほど不安定です。家政婦(のような女性…)からは妻が誰かの援助を受けていたと告げられ、また夫が行方知れずでどうやって生きていくのかと責められます。

一度会いに行くも、どうしても一歩が踏み出せず会わずに帰ってきます。

後にその援助をしていた人物が同僚の刑事であることを知るや、その男を殴り飛ばします。しかし、その男は言います、彼女はお前を愛している、体をゆるすことはあっても決して自分は愛されないことがわかったと。

そして、ラストです。事件解決後、ペルクは再び妻を訪ねます。逃げることはせず、しっかりと妻の眼差しを受け止めます。

軸となる話がもっと不条理なものであればさらによかったとは思いますが、なかなかそうはいかないのが映画ということでしょう。