ほつれるではなく、そもそも結び目もないですし、キレて切っただけ…
ちょうど1年前に見た「わたし達はおとな」の加藤拓也監督の長編2作めです。
その映画では、映画的じゃないとか、映画に技術が足りないとか、女性への悪意があるとか、相当辛辣なことを書きましたのでとても記憶に残っています。ただ、記憶に残っているのはそう書いたことであり、映画そのものではありません。そういう映画です。
かなり作り込まれたドラマ…
やはり前作の「わたし達はおとな」と同じです。極めて日常的な会話で人間関係を描こうとしています。違うのは、前作では女性への悪意があると書きましたが、この映画では女性は不可解なものという男性目線が前面に出ていることです。それに無駄がなくなってかなりミニマルになっています。
内容は、下世話な言葉でいえば、W不倫中の女性のもやもやが夫の口撃によって本当に女性の意志かどうかわからないままに爆発して家を出ていくことになったという話です。
映画のつくりは、ミニマリズムではありますが、かなり作り込まれており、説明台詞を避けて画や台詞のちょっとした端々で物語を語ることにこだわっているように感じます。
冒頭、綿子(門脇麦)がアウトドアっぽい服装とリュックという出で立ちで寝室からリビングへ出てきます。文則(田村健太郎)の声(だけ…)でちょっと寒くなったと入り、綿子が布団出しておくねと答えて家を出ていきます。後に実際に綿子が寝室から掛け布団を出してリビングのソファに置くシーンがあります。
綿子と文則は家庭内別居状態ということなんですが、その時はわからなくても後にわかってくるという、こうした作り込みがたくさんされている映画です。これをうまいと感じるかどうかが評価の分かれる一つの要素ではあります。
綿子は木村(染谷将太)と不倫旅行のグランピングに行きます。そして、その帰り、別れた直後に木村が交通事故で死にます。その時綿子は一旦は救急車を呼ぼうとしますが、何を思ったのか電話を切ってしまいます。
まあ一般的にはバレることが怖かったということかと思いますが、その後綿子が悔やむようなシーンはありませんのでよくわかりません。
これが二つめのポイントで、この状態、綿子が何を考えているのか伝わってくるようなシーンがないままに最後までいく映画です。これを自然体、あるいはリアルと感じるかどうかも評価が分かれるところだと思います。
綿子はキレるためのきっかけを待っている…
という始まり方をし、その後、木村のことを断ち切れない思いの綿子(当たり前ですわね…)が木村の墓参りをしようと遠出をしたりし、その度毎に文則が不信感をつのらせ、綿子を問い詰めていくことになります。
そうした中でいくつかのことが明らかにされていきます。
まず家庭内別居の原因は、文則が前妻と不倫をしていることを綿子が知ったこと、そして前妻との子どもを預かる際にその面倒を母親にみてもらおうと二人の住まいの鍵を母親に渡していることです。こうしたことも直接的にではなく、リビングの綿子のカットにオフで子どもと母親の声がするシーンで説明しています。
また、綿子と文則の関係も不倫から始まっています。文則が前妻と離婚し、綿子と結婚したということで、しかし、文則と前妻との関係はセックスも含めて続いていた(いる…?)ということです。
前妻もその母親も子どもも登場しません。登場するのは木村の墓参りの際に会う木村の父親と、後にその父親が木村の妻に綿子のことを知らせたらしく、木村の妻が綿子を呼び出して責めるシーンがあります。ただ、このシーンも、木村の妻がこういうことですよね、こういうことですよねと言い、それに綿子がはい、はいと返事をするだけで、綿子が何を感じているのかは画からは伝わってきません。
このシーンで、木村の妻に、結婚したら夫(妻だったかもしれない…)以外の人とセックスしちゃいけないですよねと言わせていたのが妙に印象に残っています。なぜでしょう(笑)。
木村の父親の登場シーンが割と多いです。映画的にはあまり意味があるとは思えないのですが、木村とはあまり交渉がなかったという話や、子どもの頃に飼っていた犬がひき逃げされた話をさせていました。それに父親は木村とは血が繋がっていないようなことも匂わせていました。登場シーンが多いのは、指輪をラストシーンでの綿子の決断(というか単にキレただけ…)のきっかけにするための振りのためでしょう。
こういうことです。冒頭の不倫旅行の際に木村がペアリングをプレゼントします。二人で指輪をした手の写真を撮って綿子がインスタに上げると言っていました。バレるでしょうと思いますが、あるいは、これだけ作り込まれたドラマですので、実は綿子は離婚のきっかけを待っているということを示したかったのかもしれません。
とにかく、映画が終盤に入り、綿子がリビングでお金を財布から財布に移しています(だと思うが意味はわからない…)。その時、指輪を紛失します。どこで失くしたかはっきりしないということなんでしょう、再び木村の墓参りルートをたどり、そして木村の父親を訪ねますと、父親が探しものはこれですかと指輪を差し出し、木村の妻が遺体とともにあったと言って持ってきたと告げます。
その後に木村の妻から責められるシーンがあり、そして家に戻りますと、文則がこんな物が落ちていたと指輪を差し出します。問い詰める文則、そしてこれまで一度として感情をあらわにするシーンがなかった綿子がついに不倫はあんたが先でしょ!とキレて離婚を持ち出します。パターン通りではありますが、動揺して甘えだす文則です(笑)。
そして、翌日(後日…?)家を出ていく綿子です。
やはり女性は不可解なものということか…
文則という人物はわかりやすく造形されています。興奮しちゃいけない、怒っちゃいけない、相手の考えを聞かなくっちゃいけない、話し合わなくっちゃいけない、そう思うがゆえに相手を問い詰めていくタイプの人物です。
それに対して綿子は最初から最後まで文則と正面切って話をすることを逃げています。そのわけを映画は語っていませんが、何を考えているかわからない綿子に造形している以上、脚本監督の加藤拓也さんにもわかっていないのでしょう。やはり加藤監督にとって女性は不可解なものということで、俳優の理解と演技を待つということかと思います。
で、門脇麦さんの綿子はどう見えるかですが、指輪のインスタの件でも書いたように綿子は木村との不倫に関してこそこそとしていません。文則に対して隠しごとがあることを隠そうともしていません。文則を愛しているようにもみえません。また、木村についても、亡くなっているわけですから木村とのことが頭から離れないのは当たり前ですが、不倫がゆえに関係が盛り上がっていたといった描き方もされておらず、そもそも木村を愛していたかどうかもわかりません。
結局、あんたの不倫が先だ!の伝家の宝刀(笑)を抜くタイミングを待っていたということじゃないかと思います。
これは本当にリアルなのか…
会話は日常語で構成されています。我々は日常、主語述語なんて気にしていませんし、単語やセンテンスも前後しますし、相手の言うことなど聞かずに自分の言いたいことを言ったりします。
前作も含め加藤拓哉監督の映画を見ていますと、そうした日常語で会話を成立させることにこだわりがあるように感じますが、なぜそんなことにこだわるんでしょう。日常的な会話で物事の本質が明らかになるのであれば、世界はもっとクリアです。
たとえばこの映画を見てなにか生きることの本質的なことを感じる人がいるとすれば、それは不倫経験があるか、不倫中の人です。この映画の場合は相手が死んじゃっていますが、不倫をしてどうしたらいいんだろうと悶々としている人が見れば素晴らしい映画に見えるんじゃないかと思います。
早い話、日常会話をどんなにらしくやってもそこからは物事の表層しかみえてきません。リアルな現実をスクリーンに表出させることとは別ものです。
またも書きすぎてしまったようです(ゴメン)。