これは、子どもを求められる女性たちの悲劇か…
「アダプション/ある母と娘の記録」「ナイン・マンス」と見てきたメーサーロシュ・マールタ監督の特集上映ですが、もう一本見ることが出来ました(1週間ほど前ですが…)。若き頃のイザベル・ユペールさん(撮影時25、6歳…)が出演しています。
メーサーロシュ監督の描きたかったこと…
メーサーロシュ・マールタ監督は、ウィキペディアのフィルモグラフィーを見ますとかなり多作の監督で、長編を撮り始めた1968年から2000年あたりまではほぼ年1本ペースで撮っています。1976年の「ナイン・マンス」から1980年のこの映画の間にも3本撮っています。
ですので、この映画を含め3本見ただけでは、この「Örökség(原題:遺産)」が作品全体の中でどういう意味や位置づけになるのかはわかりません。ただ、他の2本は1975、76年当時のハンガリーの現代劇でしたが、この映画は1936年から45年までを時代背景とした時代ものですのでかなり異質には感じます。
また、この映画には生活感というものがほとんどありません。そもそものプロットが、超裕福な夫婦の妻が自分が不妊症のために他の女性に生活の面倒をみるから夫の子どもを生むよう持ちかける話です。妻が裕福なのは父親が資産家だからであり、妻はやや異常なほど父親を愛しており、その父親のために自分に子どもが必要だと考えているようです。
これはかなり無理な設定に感じます。この妻は、夫を愛しているからその子どもが欲しいというわけでもなさそうですので、父親に家系が絶えないことを見せたいと考えている以外に理由は見当たりません。ということであれば、どう考えてもややこしくなるであろう夫と他の女性の子どもではなく養子でもいいわけですので、逆説的にとらえれば、この無理な設定こそがメーサーロシュ・マールタ監督の描きたかったことじゃないかと思います。
でもよくわかりません(笑)。
「アダプション」のカタは実子がかなわないとなれば養子を求める子どもが欲しい女、「ナイン・マンス」のユリは子どもを愛してはいるけれども自分の人生を生きる女、そしてこの「ふたりの女、ひとつの宿命(遺産)」のスィルヴィアは遺産を残すために子どもが必要な女ということになります。
ですので、この映画をスィルヴィアとイレーネふたりの女性を重ね合わせたところからみれば、女性が子どもを求められることは時として抑圧的に働くということを描いているようにもみえます。
この映画の結末を考えればそういうことになります。
物語は子どもをめぐる悲劇へ…
例によって説明的なシーンや登場人物の感情表現がありませんので話はトントントンと進みます。ただ、他の2作のように小気味よい展開とはなっておらず、特に中盤などはかなり端折った展開で雑な印象を受けます。
時代背景が1936年から1945年ですので、後半になりますとファシズムの台頭、そしてユダヤ人迫害が物語を動かすことになります。これも描きたかったことのひとつかも知れませんが、主要なことと感じられるほどには描かれていません。
スィルヴィア(モノリ・リリ)は今でいうケーキ屋のような店でユダヤ人のイレーン(イザベル・ユペール)と知り合います。スィルヴィアは何々を何十個とか全てとか大人買いをしていました(笑)。
その後ふたりは急速に親しくなります。その描写は、意図しているかどうかははっきりしませんが、性的なものも感じさせるほどに親密に描かれています。そして、スィルヴィアはイレーンに夫アコーシュと寝て子どもをつくることを求めます。最初は拒否するイレーネですが、結局受け入れます。
ふたりの関係をレズビアン的に解すればふたりの子どもという理解もできますが、さすがにそこまで時代は進んでいないのでしょう、ここではふたりの間にお金が介在します。早い話イレーネはスィルヴィアに買われたわけです。
スィルヴィアの夫アコーシュ(ヤン・ノヴィツキ)はハンガリー軍の将校です。アコーシュも最初は拒否しますが結局受け入れます。アコーシュにも妻の財産への野心は感じられませんのでなぜ妻の要求を受け入れたかはわかりません。
イレーネが妊娠し、出産のために3人揃ってドイツへ移ります(ということだと思うが…?)。そこではアコーシュはイレーネが妻であり、スィルヴィアをその姉と紹介しています。とにかく奇妙な関係が続きます。スィルヴィアがイレーネと同じ服を着たり同じ髪型にしたり、裸でイレーネの部屋の前に横たわったりと、混乱するスィルヴィアです。
イレーネが男の子を出産し、願い通り子どもを手に入れたスィルヴィアですが、すでに父親はなく、またアコーシュもイレーネのもとに去ってしまいます。
このあたりかなり端折られています。そして、1945年、子供もスィルヴィアのもとで成長しています。また、イレーネとアコーシュの間にも子どもがいます。
時代は第二次世界大戦末期です。ハンガリーはナチズム的民族主義政党矢十字党が政権を握っています。スィルヴィアのもとにアコーシュがやってきます。ユダヤ人のイレーネが危険な状態にあるからスィルヴィアの身分証明書を貸してくれと言い、強引に持っていってしまいます。
イレーネとアコーシュが矢十字党の検問にあいます。スィルヴィアの身分証明書を出しますが、見破られてイレーネは拘束され、また、アコーシュも逮捕されます。もともとアコーシュは反ナチズムの軍人と描かれています。
この結末は、スィルヴィアがふたりを売ったということでしょう。
意外にも邦題は正解かも…
日本では海外からの映画に配給が日本独自のタイトルをつけます。単に日本語に訳しただけでは意味が伝わらないこともありますので決して悪いことではありませんが、割と多くの場合、情緒的な言葉を使った、いわゆる釣りタイトルがつけられ、映画をミスリードします。
この映画の原題は「Örökség」であり、意味は「遺産」ということです。スィルヴィアの父親の遺産のことを指しているのだと思いますが、それに対して邦題は「ふたりの女、ひとつの宿命」です。
これもどちらかと言いますと、釣り系かなと思っていたのですが、よくよく考えれば、「宿命」という言葉の選択はどうかとは思いますが、映画の内容を、スィルヴィアとイレーネ、ふたりの女性が子どもを求められたことによって起きた悲劇と考えれば、あながち釣りとも言えず、核心をついているのかも知れません。