女性蔑視じゃないか…、と書評に続き、またも書き過ぎたか…
石井裕也監督は日本の映画監督の中ではかなり多作な監督だと思います。2009年の「川の底からこんにちは」をメジャーデビュー作としますと、この「本心」まで15年間で14作撮っています。1年1本ペースです。それだけ評価が高く、あれこれ声がかかるということなんでしょう。
原作はこうだ!…
その石井監督をこのブログ内で検索してみましたら、この「本心」を含め10本見ています。特別注目しているわけではありませんのでそれだけ多作ということだと思います。その上で言えばですが、石井監督がその力を発揮できるジャンルは、たとえば最近の映画では「愛にイナズマ」のようなコメディだと思います。ただ、最近は「茜色に焼かれる」や「月」といった社会派的なシリアス系に振れた映画も撮っていますので徐々に変化していく過程にあるのかもしれません。
この「本心」もどちらかといいますと後者の系統に入ると思います。
原作は平野啓一郎さんの『本心』、今の日本社会の抱える問題点が広く浅く(ゴメン…)盛り込まれた小説です。映画化しようとしますと散漫になりはしないかと心配になる内容ではあります。
詳しくは上の書評を読んでいただければと思いますが、原作の持っているテーマと映画がそれをどう扱っているかを簡単にまとめてみます。わりと丁寧に原作のテーマを取り入れていると思います。
まず、人の死はどうあるべきかという問題意識からの「自由死」、これは完全なる個人の選択による積極的安楽死という意味で使われています。原作からは、認められるべきだが社会的弱者への圧力になりはしないかという問題意識が感じられます。ちなみに原作では朔也の母は自殺ではなく事故死です。
「Ai」、死んだ人間をAiによって蘇らせるヴァーチャルフィギュア(VF)というものが登場します。朔也は母親の自殺の真相を知りたくて母親のVFをつくります。原作ではこのあたりの記述にあまり具体性はなくシーンも少ないのですが、映画ではかなり膨らませてあります。やや近未来(ほぼ現代…)的な映像を入れて映画にしやすくなるからだと思います。
「格差社会」、主要な登場人物である石川朔也母子、三好彩花、岸谷は貧困から抜け出せません。原作は、すでに朔也も岸谷もリアルアバター仕事をしているところから始まりますので、工場労働者であったとか、二人が高校時代の同級生だったということはありません。ですので、原作は言葉では「貧困」が語られますが具体性はありません。後半に登場するアバターデザイナーのイフィーを「あっちの世界」の人と呼んだり、イフィーの住まいの描写でその格差が描写されているだけです。
また、その貧困ゆえの女性抑圧構造として性搾取があり、彩花は生活のために「売春」をしていたとの設定は原作のままです。朔也の高校時代の同級生に同様の境遇の生徒がいたことも原作にありますが、ただ、この話は映画のように女生徒本人に焦点を当てているわけではなく、朔也が女生徒の退学処分を撤回させるために座り込みをしたという英雄的行動(朔也自身が言っている…)が重要視されています。その女生徒への好意があったかもしれないとは語られますが、あくまでの朔也の内省的なこと以上のものはありません。
「外国人への偏見差別」、映画では扱いが小さく、コインランドリーの清掃員が外国人であることもはっきりしていませんが、原作はラストシーンに持ってくるほどの重要度です。
他には、行為自体はいつの時代でもあることですが、集団で人を嘲笑することのハードルがネット社会になって下がっていることを感じさせるシーンがあります。リアルアバターの朔也がスーツ姿で街中を引っ張り回されるシーンはほぼ原作通りです。
後半に岸谷が加わるドローンを使った政治家暗殺未遂事件がありますが、あれもほぼ原作通りで、今頻繁に起きている闇バイトを思い起こさせます。この岸谷のキャラクターは映画ではまったく違っています。原作の岸谷は朔也の別の一面を表現した存在です。原作には朔也が逮捕後の岸谷に面会するシーンがあり、あるいは自分が岸谷であったかも知れないと内省的に語っています。
リアルアバターとヴァーチャルフィギュア…
という原作の要素を、映画はほぼすべて網羅してつくられています。
原作の時代設定は2040年代ですが、映画は今現在の話として描いており、朔也(池松壮亮)が母親のVFをつくるのも2026年としています。
これは正解じゃないかと思います。すでに書きましたように物語を構成する要素はすべて今現在のものですし、AiによるVFなんてものも原作の範囲内であれば現実に可能なことだと思います。近未来の映像というものは得てして陳腐になりやすいものですので、現実に可能な範囲内で収めているのは的確な判断だと思います。
石川朔也と岸谷(水上恒司)は高校の同級生の設定です(石川さんって呼んでいたと思うけど違ったかな…)。朔也は高校時代に好意を持っていた女生徒(名前があった…)が売春をしていたらしく、それを揶揄した教師の首を絞めて逮捕されたという設定になっています。岸谷がその女性とのことを取り上げてやたら朔也を茶化すシーンがあります。また、格差社会にあって、二人とも工場労働者として働いており、自動化によって職が失われていく描写があります。
そして、大雨の日、母親(田中裕子)が入水自殺をします。朔也は止めようとして自らが流され、そのまま意識不明で救助され、昏睡状態のまま1年が過ぎます。
原作を知っていますと、えー?! となりそうですが、意外にも違和感なく進みます。概して前半はうまくできていると思います。
1年後、朔也は浦島太郎状態のまま、岸谷に誘われるがままにリアルアバター仕事につきます。また、これも岸谷に勧誘されてVF企業で母親のVFをつくることになります。この後、映画はリアルアバター仕事と母親のVFとのやり取りが2つの軸となって進んでいきます。
リアルアバター仕事では、死ぬ間際にもう一度思い出の海辺の夕陽がみたいという老人のリアルアバターとなり、朔也本人も夕陽に感動して涙を流したり、高級レストランでVIP扱いをされたことが自慢の老人のケースでは慣れない場所に緊張してクライアントから評価を下げられたりと続きます。
このリアルアバターはAiによってコントロールされているらしく、評価が3.5以下になると(食べログか…)即座に解雇されるという設定になっています。大きな四角いバックパックを担いで動き回る様子はウーバーイーツからとっているのでしょう。また、手に持っている360度カメラも今実際にあるものです。
もう一方のヴァーチャルフィギュアは、岸谷がVF企業の野崎(妻夫木聡)を紹介することから始まります。岸谷が野崎の娘の子守りをしているということで野崎の中学生くらいの娘が登場していました。石井監督のまじめさの現れですかね。原作にはない人物ですが、岸谷が野崎を紹介するためのつじつま合わせなんでしょう。
このVFについては映画も原作と同じ問題を抱えています。VFの考え方としては人が残した文章やメールや映像の類や関わりのあった人たちの証言を入力し、そのデータをもとにAiが機械学習やディープラーニングを使って質問に対する答えを出すというものです。
で、朔也は母親が「もう十分…」と言い残して自殺したそのことが納得できずに母親の「本心」を知りたいと思いVFをつくるわけです。でも、これがとても中途半端なんです。原作もそうなんですが、朔也が本当に母親の本心を知りたいと思っているようにはみえないんです。子どもの頃から二人きりで暮らしてきたその母親がいなくなってしまったことの寂しさ、ちょっと気取って言えば喪失感を埋めたかったくらいにしかみえません。
当たり前ですね、母親はすでに本心を語って自殺しています。
「もう十分…」
人に「本心」というものがあるとするならば、これ以上の「本心」はありえないでしょう。
そう考えますと、この映画、そして原作の主要なテーマが見えてきます。
朔也と彩花の叶わぬラブストーリー…
この映画の、そして原作の主要なテーマとは「自由死」でも「Ai」でもなく、朔也と彩花の叶わぬラブストーリーです。なぜ「叶わぬ」のかは最後に書きますが、私はインテリ作家のプライドだと思います。
三好彩花(三吉彩花)は朔也の母親の仕事上の同僚であり、生前最も親しくしていたという人物です。朔也は野崎に精度の高いVFにするために親しかった人の情報が必要と言われて彩花に会います。その後、彩花が災害で住まいを失ったことから母親の部屋を貸すことにして同居することになります。
映画は冒頭に高校時代の女生徒を映し出し、朔也が彩花にその残像を見ていることを明確にしています。わざわざ岸谷に彩花と女生徒がそっくりだとまで言わせています。また、女生徒も彩花も売春をしていたとし、彩花とはそのことを朔也が知っているかどうかで二人の恋愛感情を表現するという、かなり古いタイプの表現を使っています。原作のままです。
石井監督には原作の本質的なものがよく見えているということでしょう。
原作にはない不思議なシーンがあります。二人で高級レストラン(という設定…)へ行き、ピアノに合わせて朔也が踊ろうというのです。なんとも奇妙なシーンでした。彩花は体が触れることに抵抗感を感じていますので手を握るどころか体を離したままワルツを踊っていました。
石井監督のコメディセンスがちらっと覗いてしまったのかもしれません(笑)。もちろん笑えはしませんが。
イフィーはいい人? 悪い人?…
で、終盤に入るのですが、映画はかなり焦って走っています(笑)。早くまとめなくっちゃということでしょう。結局、原作に忠実に作ろうとすべてを盛り込みすぎなんだと思います。
朔也は悪意あるリアルアバター仕事で暑い中を街中引っ張り回されます。ほんと、リアルアバターで何でもやるんだなと。そして自販機で水を買っていますとコインランドリーから怒鳴り声が聞こえます。清掃員の女性が男に怒鳴られています。朔也は間に入り男を突き飛ばします。そして、馬乗りになり男の首を絞めます。高校時代、教師の首を絞めたフラッシュバックが入ります。
後日、その防犯カメラの映像がネットに流されバズります。その映像では男の首を絞めているところはカットされており、朔也は女性を助けたとヒーロー扱いされます。朔也に投げ銭が入ります(入金のルートがわからない(笑)…)。その中に300万円の投げ銭を入れた者がいます。
車椅子生活のイフィー(仲野太賀)です。イフィーは超売れっ子のアバターデザイナーで、朔也には「あっちの世界」の人です。イフィーは朔也に今の倍のお金を出すから専属になってくれと言い、朔也は受け入れます。
このイフィーですが、映画ではかなり嫌な奴に演出されています。仲野太賀さんもそれを意識して演じていると思います。原作はまったく違います。いい奴、というよりもそこまで描かれていないといったほうが正確ですが、少なくとも映画のような成金的な人物ではありません。誠実な青年といった感じです。
彩花もイフィーの誘いで会うことになり親しく話すようになっていきます。そして後日(かなり端折っている…)、朔也はイフィーのリアルアバターとして彩花に告白します。彩花は戸惑います。更に後日、彩花はイフィーから正式にプロポーズされたと告げ、受け入れることにしたと言います。
そして、彩花が朔也のもとを去る日、どういう流れだったか忘れましたが、空(くう)に伸ばした朔也の手のアップに彩花の手がそっと添えられて終わります。
私もかなり焦って端折りました(笑)。
原作のイフィーはいい奴なんですが、映画のイフィーは悪い奴です(笑)。なぜそうしたのかは石井監督本人に聞かないとわかりませんが、私自身がそうであるように、原作の男たちはみな鼻持ちならない感じがするんじゃないかと思います。
男たちがみないい人間すぎるのです。男たちがみな平野啓一郎氏の分身に見えるのです。そのあたりことは原作の書評に詳しく書いていますのでぜひお読みください。
そこには書いていないことをひとつ付け加えておきますと、女性が体を売っていたとか売春をしていたことを安易にドラマに利用することは女性蔑視じゃないですかね。映画のことは置いておくとして、原作では彩花や女生徒が売春をしていたことを生活のためと一言で片付けています。もちろん売春(買春)という性搾取は現実に存在しているわけですから、そのことをどう捉えるかとの視点で書かれていればいいとは思いますが、この原作なんて、生活のためと一言で片付けたうえに、彩花には恥ずべきこととの意識をもたせており、それに対して同情的な視点が感じられます。インテリ作家のプライドのなせる脳内妄想だと思います。
ちょっと書きすぎていますが、平野啓一郎氏の書く男目線の女性像が嫌でしかたがないということです。