ハウス・ジャック・ビルト

内なる殺人鬼妄想に苦悩するラース・フォン・トリアー

トリアー監督(呼びかけ)、飛行機恐怖症ということはわかりますが、一度、ヨーロッパ以外の非キリスト教圏に長期滞在してみたらどうですか? 列車で行けますし、それに、もしすでに経験されているのであれば、さらにその倍の期間行ってみてはどうですか。

ハウス・ジャック・ビルド

ハウス・ジャック・ビルト / 監督:ラース・フォン・トリアー

これは映画というよりも、ひとりの男の告白を聞いているみたいなものです。その男は、映画ではジャックとなっていますが、監督自身の可能性が高いです。

見ていて面白いところは何もありません。連続殺人犯ジャック(マット・ディロン)が  5シーン(5Incidents)にわたって何人も殺していく、それだけの映画です。殺人シーンにスプラッター要素はありませんが、残酷さはあります。ただ残酷さを見せようとしているわけではなく、殺人行為はあっさりしています。

殺人は連続していますが、ジャックという人物に連続性はありません。かっとなって殺したり、わざわざ殺すために警察を語って侵入してみたり、親子を鹿に見立ててハンティングしてみたり、異様に女性の乳房にこだわり切り取ってみたりと殺人行為にパターンはありません。

サイコパスとはそういうものということなのか、あえてジャックの人物像を描かず、ただ殺人シーンだけを見せようとしたのか、あるいはマット・ディロンが優しいおじさん過ぎるのかはわかりませんが、いずれにしても映画としてはつまらないです。

描こうとしているのは、好意的に考えれば、監督自身の持つ、あるいは人間誰もが持っている(と監督が考えている)「悪」、そしてそれを自覚した時の「苦悩」なんだろうと思います。

さらに深読みすれば、映画として意味のある殺人はすべて女性ですし、5つ目のインシデントの大量殺人(殺戮)の(はっきりとわかる二人の)対象が有色人種というのも意図的な設定なんでしょう。

自らの内にふつふつと湧き上がりいつまでも消えない「悪」的妄想、それは人間の根源的な罪であり、自分はそれを一身に背負っている、そんな感覚なんだろうと思います。

エピローグに登場するヴァージ(ブルーノ・ガンツ)は「善」とは言わないまでも、ジャックが内面的に対話する相手ということなんでしょう。そのエピローグでの対話がナレーション的に冒頭から入っています。

ヴァージはジャックを地獄そのものへ案内します。マグマが滝のように流れ落ちる地獄の峡谷のような場所に出ます。地獄からイメージするビジュアルはやっぱりこれ?とは思いましたが、それはともかく、ふたりの前に壊れた橋が現れます。ヴァージは、この橋を渡れば地獄から抜け出られると言い、自分は戻って行ってしまいます。ジャックは絶壁の崖をつたい向こう側に行こうとしますが、落ちてしまいます。

ちょっと、わかり易すぎるでしょう。

まあ、トリアー監督がこれで内面的葛藤から逃れられるのであれば、それはそれでいいとは思います。

タイトルの「ハウス・ジャック・ビルト」、邦題では定冠詞や接続詞が省略されていますが、マザーグースの「The house that Jack built」から取られたものとのことです。段落ごとに一行ずつ増えていく言葉遊びらしく、進めば進むほどどんどん積み重なって膨らんでいくジャックの何かを見せてくれるのかと思っていましたが、確かに死体は積み上がっていくにしても、映画が映画であるべき何かはいっこうに積み上がっていきません。ジャックの家自体も2度ほど建てては壊し、建てては壊しを繰り返し、エピローグでは死体で家がつくられていました。

グレン・グールドが頻繁に引用されていたのは何を意図したのでしょう?

名言集をググってみたところでは、『芸術の目的は、アドレナリンの瞬間的な放出を解放することではなく、むしろ、不思議(驚嘆)と静寂の状態を徐々に生涯にわたって構築することです。』なのかもしれません。

The purpose of art is not the release of a momentary ejection of adrenaline but is, rather, the gradual, lifelong construction of a state of wonder and serenity. 

「a state of wonder and serenity」はどういう状態を指しているのでしょう?

もしトリアー監督がこの言葉に触発されているとしますと、トリアー監督はこの状態を得られていないゆえにこうありたいということなのかもしれません。