原作者の河林満さんも監督の高橋正弥さんも初めて目にする名前です。河林満さんは2008年に57歳で亡くなられているようです。いま河林満さんのウィキペディアを読んでいましたら、ラストシーン、ああやっぱりねということが書かれています。
原作は河林満著『渇水』
そのウィキペディアを読んで早速ポチッとしました。
原作では少女ふたりは自殺しているそうです。映画ではプールに飛び込むところで終っていますが、どう考えても児相を抜け出してきているわけですからドラマ的にはそれしかないですね。
どういう判断があったかはわかりませんが、映画のトーンからすれば、はっきり描かなかったことは妥当かも知れません。
何となく終わってしまう映画
高橋監督のキャリアの長さからでしょうか、映画はとてもていねいにつくられていますし、そつがない感じがします。
水道料滞納者に対する給水停止執行を行う水道局の職員が映画の軸になっています。映画では停水執行と言っていますが、その停水執行という言葉を聞いただけでもうどんなドラマか予想がつきます。滞納にはそれぞれに事情があるわけですし、それがたとえ悪質さからのものであっても、実際にその作業をする人には精神的にかなりの負担になることだと思います。
水道局職員の岩切(生田斗真)と木田(磯村勇斗)が水道料滞納者をまわり、説得し、応じなければやむを得ず給水停止にしていきます。貧困で払えず停止になる者、商売がうまくいかなくて払えず、妻がへそくりを出してくる者、食って掛かってくる悪質な者、そして映画が主に描いているのがネグレクトの小出(門脇麦)とふたりの子どもの母娘家族です。
ただ、その母娘の問題が主題というようには描かれておらず、岩切個人の問題と関連させながら進んでいくスタイルです。その大枠として日照り続きのために水不足となり節水制限が出ているという設定となっています。
という描き方がされているために、つくりはていねいなんですが、最後まで問題がはっきりせず、見ているうちに何となく終わってしまったという印象の映画です。
飢餓感のない俳優たち
なぜこの映画は見る者に何も残せず終わってしまうのか。一番の理由は、ふたりの俳優がこの映画の内容に合っていないからでしょう。
生田斗真さんの演じる岩切には妻と子どもがいます。しかし今は妻が子どもを連れて実家に帰ってしまっている状態です。妻とのシーンのフラッシュバックが少なくあまりはっきりしませんが、妻は岩切との間に繋がりを持てなくなっているようであり、その原因は岩切が家族というものを知らずに育ったがために妻や子どもにどう接していいのかわからないから、と岩切自身が語っています。
しかし、そんな岩切にはまったく見えません。生田斗真さんの岩切には飢餓感がありませんし、渇いても見えません。もちろん生田斗真さんが悪いわけではありません。生田斗真さんの持ち味を見抜けていない制作者側の問題でしょう。
映画が主として描いている水道料滞納者の小出を演じている門脇麦さん、同じような意味で飢餓感がありません。小出はふたりの子どもを抱え、船乗りの夫が帰ってこずに生活に困っています。自分は中学出であり、仕事もなく、出会い系サイトを使って男と寝てお金をもらうしかないと言っています。ある日、待ち合わせの男から逃げられた際にたまたまナンパされた男とともにどこかへ行ってしまいます。水道が止められた家に子どもふたりを置き去りにしてです。
そうした行いができる人が実際にはどういう人かはまったくわかりませんが、少なくとも、これは映画なんですからそう見えなければ意味がありません。残念ながら門脇麦さんにはヤサグレ感がありません。これも同じように門脇麦さんの問題ではありません。制作者側の問題です。
渇きの感じられない映画
この映画の背景には日照り続きで水不足というものがあります。当然ながら、水不足による節水制限と水道料滞納とは関係がありません。
それをあたかも関係があるように、いやあるようには描いていないのですが、常に背景として水不足による渇きがあるように描いています。
まったく関係のないことを背景にしていることもこの映画を煮えきらなくしていることのひとつの原因でしょう。ジリジリする暑さや渇ききった空気をいくら演出したとしても、岩切や小出の渇きには結びつきません。
結局のところ、物語的には情に訴えなければいけない内容なのにそれを嫌って美しくやろうとしたことがはっきりしない映画になっている一番の原因かと思います。