「TSUTAYA CREATORS’ PROGRAM FILM 2017」準グランプリ作品の映画化らしいです。それに引っかかったわけではなく「町田くんの世界」の文字がぱっと目に入ってきましたので思わず(なぜか)ぽちっとしてしまいました。
シュールな俳優たち
片岡翔監督は「町田くんの世界」の脚本だったようです。そうですよね、あれは石井裕也監督でした。劇場ではなくDVDで見たんですが、リンク先のレビューを読み返してみましたら、最後を「シナリオがしっかりしていればいい映画を撮る監督というまとめになりました」で締めくくっています。シナリオがよかったから石井監督の力が発揮されたという意味です。
その片岡翔さんの監督三作目ということですか…。
とにかくシュールな映画でした。内容がではありません。俳優たちがです。
内容は、映画のジャンル自体がオカルト系(かな?)のサスペンスですので、シュールであればあるほどそれに越したことはないのですが、そういうことではなく、この映画は俳優たちが現実存在なのにやっていることが超現実という意味のシュールです。
もう少しくだいた言葉で言いますと、俳優たちが演技していない、演技しようがない状態で立ちすくんでいるということです。
こういう映画をホームドラマのような撮影や編集で撮ってはダメですよ。そもそも内容からして俳優は現実的な役作りはできないわけですから、監督の演出とカメラワークと編集で俳優の非日常性を引き出す努力をしなければ映画になりません。
俳優たちがかわいそうということです。
「この子は邪悪」のこの子って誰?
タイトルが「この子は邪悪」で主演が南沙良さんであれば、その役である窪花が「この子」かなと思いますが、どうも違うようです。最後まではっきりしませんが、生まれた子どものことでしょうか。
ひょっとして、もっとひねってあって、邪悪ではないけれども邪悪さを受け入れた、やはり南さん演じる窪花を指しているんでしょうか。いや、そうなら全員受け入れているわけですから「みんな邪悪」になってしまいます。どうでもいいか(笑)。
児童虐待の問題はどこへいった?
以下、ネタバレしています。
主演は南沙良さんになっていますが、物語の主役は心理療法士の窪史朗(玉木宏)です。妻の繭子、長女の花(南沙良)、そして次女の月の4人家族です。
一家は5年前に交通事故にあい、繭子は意識が戻らず寝たきり状態、史朗は片足が自由に動かせない状態になり、月は顔に大やけどを負って常時フェイスマスクで顔を覆って暮らしています。唯一花だけが大したケガもなくすみ、逆にそのことで後ろめたさを感じています(という設定です)。
まあ、その後ろめたさという設定もまったく生きていないシナリオなんですが、とにかく、なかなか話の軸が見えてきません。ですので、結論です。
実は月は事故後すぐに亡くなっています。史朗は、おそらく事故のショックによって精神的におかしくなっているんでしょう、家族こそが大切だと、元の家族を取り戻そうとします。史朗は心理療法士の立場を利用して診療に訪れる患者を催眠術(もっと高度なもの?)で操って自分の思うように動かします。経緯はわかりませんが、児童虐待にあっていた少女を月に仕立て上げて、実際にはやけどの傷もないのにフェイスマスクをさせて月になりすまさせています。
ここはちょっと説明が必要です。まあ正直なところよくわかっていないので説明できないのですが、史朗には人間とうさぎの心を入れ替えることができます。虐待にあっていた月とともにその父親の心もうさぎと入れ替えたということだと思います。違いますね、父親はうさぎですが、月は本物の月、あれ?死んでますね、まあ死んだ月と入れ替えたんでしょう。時々挿入される、男がアパートのベランダで柵についている虫か何かを食べるシーンは虐待の加害者の父親がうさぎになっているということだと思います。
次は母親の繭子です。繭子は5年間寝たきりです。ある時、女性、この女性も子どもの虐待で離婚され子どもへの接近禁止命令が出ているわけですが、その女性が診療に訪れ、史朗はこれ幸いとその女性と繭子の心を入れ替えます。
史朗は、繭子が奇跡的に回復したと言い、家に連れて帰ります。花は、やっと花の出番ということからしても主演じゃないですね、ということは置いておいて、花はその女性は母ではないと感じます。
もう一息です。純(大西流星)が登場します。純の母親は精神喪失状態で、いつも何かを見つめたまま動きません。純の行動の源となっているのが何なのかはわかりませんが、母親の病状のわけを知りたいとしておきましょう。史朗の診療所を調べ始めます。花と親しくなり、実は月が事故直後に亡くなっていることを花に教え、母親と言っている女性も会ったことがある人だと教えます。
実は純も母親の虐待にあっていたらしく、診療に訪れた母親はうさぎと入れ替えられ、後に純もうさぎと入れ替えられます。
で、クライマックスです。ここが一番シュールな場面で、皆が皆、台詞がないときは何をしていいのかわからず棒立ちです。人が撲殺されても何もしません。史朗が偽物の月に刺されても何もしません。まるでホームドラマの団らん風景のような撮影方法です。
史朗、偽物の繭子、偽物の月、そして本物の花が揃い、すべてが明らかになり、その時、純のおばあちゃんが突然登場し、史朗の頭を鈍器で殴りつけます。史朗は逆にその鈍器でおばあちゃんを何度も何度も殴りつけ殺してしまいます。月がもうこんなのいや!と叫びながら(叫んでいなかったかな…)史朗を刺します。息も絶え絶えの史朗はそのナイフを拭いながら、警察には自分がおばあちゃんを殺して自殺したと言え、家族で幸せに暮らせと言い残して息を引き取ります。
後日、本物の花、偽物の繭子、偽物の月が楽しそうにケーキを食べています。
社会問題をドラマのネタにする日本映画
で、児童虐待はどうなった?
この映画ではネタにすることもできずにただ言葉を借りただけというお粗末さですが、本当にこのところの日本映画は、児童虐待、ネグレクト、DVなどなど、それぞれ真剣に取り組まなくてはいけない社会問題をドラマのネタにして消費しているだけです。