原題は『母の日』母の話ではあっても家族の話ではない
5月の「母の日」の前に公開するという選択は、あえて避けたということなんでしょうかね。そうだとしたら、その理由は何なんでしょう?
この映画、原題が「母の日」であるだけでなく、内容も「母の日」をキーワードにした「母(となることも含め)という存在との関係に苦悩する女性たち」をテーマにした映画なんですが、「働く女性の幸せ探し」で売られちゃいました。
まあ確かに、日本人の多くが持つであろう「母」のイメージとはかけ離れた話ではあります。タイトルが「母の日」であっても、「お母さん、ありがとう」とカーネーションを贈ったりする話ではありません。オリジナルのポスターを見れば一目瞭然です。
この映画、登場人物すべての女性が皆苛立っています。
フランス共和国大統領アンヌ(オドレイ・フルーロ)は、任期中に妊娠出産し、乳児を抱えての職務に迷いが生じているようです。その迷いが何であるかを映画から読み取るのは結構難しく、執務に集中できなく国民が求めている大統領像に応えられなくなっていることが原因なのはわかるのですが、たとえば、夫が育児参加してくれないからとの描写があるわけでもなく、ベビーシッターを雇おうという気もなさそうですので、もっと根本的ななにか、たとえば子供を生み育てることと大統領の職務を続けることのどちらを自分が求めているかを思い悩んでいるということなのかも知れません。
大学教授ナタリー(オリヴィア・コート)には教え子(だと思う)のパートーナーがいます。パートナーが子どもを作ろうかと話を向けても頑なに拒否します。その理由ははっきり語られているわけではありませんが、自分の母親との関係に根ざしているようではあります。子どもを持つことへの拒否感の裏返しの描写だと思いますが、バスの中で見知らぬ子どもが降車ボタンを押すことを楽しみにしているのにそれを邪魔して押してしまったり、パートナーの友人たちとの会食の席で、授乳をする女性に喧嘩を売って罵倒したりするシーンがあります。
ナタリーは三姉妹の三女です。三女というのは公式サイトから拾っただけで映画からはよくわかりませんし、そんなことはどうでもいいという映画です。
次女のダフネはジャーナリストで、映画のラストに、大統領アンヌとのインタビューシーンがあります。
この映画、つくりとしては群像劇(風)になっており、登場人物の多くが何らかの関係を持っています。なぜ(風)としたかは、あまりそれが成功しているとは思えないからなんですが、とにかく人物像や相関関係がわかりにくいです。各シーンの切り替えに意味のつながりやリズムがありませんので、フランス語を解さないと字幕を読みつつでは相当苦労します。
ダフネにはふたりの子どもがいますが、シングルマザーのようでベビーシッターを雇っています。子供たちはベビーシッターになついており、ダフネに対しては反抗的です。ダフネが(表面上?)それを気にしている様子はなく、子供たちには常に厳しく(身勝手に?)あたっています。
ですので、ダフネの場合、子どもたちとの関係に悩んでいるというよりも、子どもたちに苛ついている印象です。
このベビーシッターはアンヌの母です。なぜそうなのかは映画からはわかりませんので、とにかくそうしたかったんでしょうが(笑)、これはちょっとばかり強引すぎるでしょう。
ちなみにアンヌの母は6人(だったかな?)の子どもを育てたと語られており、ダフネの子どもたちからも慕われますし、自信に満ちた表情で娘アンヌのインタビュー映像を見るシーンがあります。
長女のイザベルは小児科医です。この人物、映画からは(私には)まったくどういう人物かわかりませんでした。公式サイトには「幼少期の母ジャクリーヌとの関係が原因でトラウマを抱え、養子を受け入れることを考えていた」とあります。
認知症の症状が出ている母をどうするかを、三人のうち一番考えているように描かれてはいます。
老齢の舞台俳優アリアン(ニコール・ガルシア)は、心配性なのかマザコンなのか、過剰に干渉してくる息子を鬱陶しがっています。このアリアンのシーンですが、タップを習うシーンなど、映画の流れからの重要度はそれほどでもないのに、かなりシーンが多く感じられ、あるいはニコール・ガルシアさんへのリスペクトからかも知れません。
以上が主要人物ですが、他に一度見ただけではうまく整理できない人物が多数登場します。
アリアンの息子のパートナーのココはまだわかりやすい方で、彼女は妊娠がわかり伝えようとしますが、相手は母アリアンのことで頭がいっぱいという表現なのか、映画的になかなか伝えるタイミングを与えられません。コウノトリの着ぐるみシーンを入れたかったのでしょう。
他に、ココが働く花屋のオーナー(店長?)、三姉妹の友人で他人の葬式に出るのが趣味(?)の人物、母と一緒に空中散歩をする空軍兵士、ダフネの子どもたちが通う学校が「母の日」イベントをやめることにしたことへ猛烈に抗議する母たち、そして、中国人の娼婦…。
この中国人の娼婦を登場させている意味がまったくわかりません。子どもを故郷においてきているという設定で、スカイプで子供と会話するシーンを入れていますが、なぜ娼婦としているのか? なぜ中国人なのか? 脚本、監督であるマリー=カスティーユ・マンシオン=シャールさんに尋ねたいですね。
映画の流れとしてそこに必然性などまったくないと思われますが、なぜがマリー=カスティーユ・マンシオン=シャールさんにはそれがしっくりくるということなんでしょう。
という、それぞれ「母という存在との関係に苦悩する女性たち」が群像劇(風)に登場し映画が進んでいくのですが、実のところ、一体何に苦悩しているのかはよくわかりません。やはり苦悩があるのであれば、少なくともその実在感は描かれなくてはならないですし、ただ苦悩がありますでは映画にならないと思います。
結局、映画の結末は、それぞれの悩み、迷い、いらだちは、なぜかあっけなく消えてしまい、残るのは「母という存在」讃歌ということで終わっていました。
それにしてもセレブな人たちの話です。