アイスランド映画です。監督のヴァルディミール・ヨハンソンさんは1978年生まれですので44歳くらいです。これが監督、脚本の長編デビュー作ですが、撮影や照明、そして特殊効果のスタッフとして20年くらいのキャリアがある方です。
宗教性は後づけでしょう
A24が北米の配給権を獲得したということで、日本の公式サイトでは「ミッドサマー」や「ヘレディタリー 継承」のタイトルを出して、あたかもそれ風の映画のような宣伝をしていますがそういう映画ではありません(笑)。
きわめてシンプルな映画です。
アイスランドは人口の2倍の羊がいる(と言われている)国です。羊人間という発想が生まれても不思議ではありません(そうかぁ?)。羊の顔を持った二足歩行の人間のような存在がいるかも知れないという映画です。
実際、最初の方のシーンに羊の顔のアップがあるのですが、羊ってこんなかわいい顔しているのと思います。生まれてくるアダも、まあ子どもですから、羊の被り物をかぶっているような感じですのでかわいく感じます。
映画のつくりは、意味ありげな編集と音楽で何かが起きそうにみせていますのでホラーやスリラーにも思えてしまいますが、あえてジャンルを言えばファンタジーです。
クリスマスの日に種付けされたり、名前がアダ(ム)であったり、育ての母親(でいいのか(笑))がマリアであったりと、たしかにキリスト教価値観らしきものが盛り込まれていますが、おそらく最初に羊人間の発想があり、そこから子羊→イエス→マリアと物語を組み立てたのだと思います。
序章 種付け
三章仕立てになっていますが、その前に序章があります。
雪原に放牧された(野生?)の馬の集団がいます。なにものかの荒々しい息遣いが流れています。カメラが馬たちに寄っていきます。馬が逃げていきます。
つまり、カメラはその荒々しい息遣いの主ということです。この時点では何かはわかりませんが、なにか悪魔的な存在がいるということが示されます。
カメラが羊小屋に入ります。羊たちが慌ただしくなり、そのうちの一頭が倒れます(だった思う)。「羊ではない何かが生まれる」ことを知っていますので、ああ、種付けされたんだなということがわかります。
第一章 誕生
マリア(ノオミ・ラパス)とイングヴァルは牧畜業を営んでいます。
牧畜の日常作業が描かれていきます。羊の出産シーンではマリアが出てくる羊の赤ちゃんを引っ張ったりしており、実写にみえましたがどうなんでしょう。台詞はありません。
食卓での会話。イングヴァルが「時間旅行ができるようになったらしい」と言います。マリアが「過去へも戻れるの?」と尋ねています。
過去に戻りたいことがあるんだなということはわかります。後に子どものアダの墓を訪れるシーンがありますので過去に子どもを亡くしていることがわかります。マリアにはなにか後悔があるのでしょう。ただこれ以上に深くは描かれていません。こういうところを雑にすると物語が深まりませんね。
序章で身籠った羊が産気づきます。頭が出ています。もう毛がふさふさしていたように思いますが見間違いですかね(笑)。その後はふたりの顔のアップに切り替わりますので何が生まれたのかはわかりません。ふたりは声を発することもなく、ことさら驚くこともなく、ただ呆然と見ているだけというシーンでした。
おそらく、まったく受け入れられないものでもないという演出でしょう。
第二章 成長
これ以降しばらくは羊の頭だけが見せられ首から下は布にくるまれたりしていますので生まれたのは首から下が人間の身体を持つ羊人間ということが想像されます。
ふたりはアダと名付け自分たちの子どもとして育てます。
イングヴァルの弟ペートゥルが戻ってきます。4人くらいの男女が車でやってきて草原のど真ん中でペートゥルを放り出していました。何なんでしょうね、あれ? 後にマリアがお金のトラブルがある人とか言っていましたのでそういうことなんでしょう。
ペートゥルは納屋で寝たようで、翌朝イングヴァルやマリアと顔を合わせます。これも不思議な対面で、数年間会っていないのか、昨日出ていったばかりなのか、そういった過去がまったく読めません。
さらに不思議なことに、この章の最後にマリアがペートゥルを追い払うんですが、じゃあ何のためにペートゥルを登場させたの?と聞きたくなるくらいほとんど大した役割も果たさず消えていきます(笑)。
あえていえば、この時すでにアダは4、5歳くらいに育って二足歩行しているわけですが、ペートゥルが「こいつは何だ?」と尋ねることに、イングヴァルに「おれたちの幸せだ」と答えさせていることくらいでしょうか。
ペートゥルとアダが湖で釣りをするシーンの会話も奇妙でした。ペートゥルがアダに詩は好きか(読むかだったか?)と尋ね、続いて、パパもよく読んだと言っていたように記憶しています。パパって誰のことなんでしょう? 私の記憶違いなのか、字幕の訳が変だったのか、なにか意図していたのか、よくわかりません。
ああ、もうひとつありますね。自分の子どもを奪われたと考える母羊がアダを返せと言っているかのようにしきりにメーメーと鳴きます。マリアはその母親を射殺してしまいます。ペートゥルはその事実を知っていますのでマリアを脅して関係を迫ります。
このシーンもこれまで見てきた映画からしますとかなり意表をついています。マリアはペートゥルの要求を飲むかのようにみせてペートゥルを部屋に閉じ込めます。どうするのかなと思っていましたら、なんと、翌朝、ドアを開け、眠っているペートゥルを起こし、車で待っているからと言い、そのまま二人で出掛け、ペートゥルをバス停まで送るのです。そしてふたりは抱擁してさようならしていました(笑)。
そもそもふたりは過去に関係があったということかも知れないです。そこまで考えられていないかも知れませんけどね。
第三章 新世界へ
この章は何があったのか記憶がよみがえりませんので、もっと早く「第三章」と入っていたかも知れません。
とにかく、イングヴァルがアダとふたりで出掛けているときに大人の羊人間、つまりはアダの父親に襲われて首をかき切られ、そしてライフルで撃ち殺されます。羊人間はライフルを使います。
駆けつけたマリアはイングヴァルを抱きしめ泣き叫び、そしてあたりを見回し、何かを考えているようですが、何を考えているのかはヴァルディミール・ヨハンソン監督に聞かないとわかりません。
マリア、アダ、子羊、結局なんだ?
アダは子羊ですが、犠牲になっているわけではなく、むしろ新世界の存在みたいなものですからイエスじゃないですね。それに、そもそもマリアの子どもでもありません。
やはり、宗教性は後づけですね。
羊たちの復讐? それもないでしょう。そもそも羊人間であって羊じゃありません。
アイスランドの文化的価値観じゃないとなかなか理解できない映画じゃないでしょうか。