帰らない日曜日

1924年のジェーンが現代女性のように描かれている

イギリスの文学賞ブッカー賞を受賞している作家グレアム・スウィフトさんの『マザリング・サンデー』の映画化です。受賞している作品はこれではなく『ラスト・オーダー』です。

今年2022年のブッカー賞には川上未映子さんの『へヴン』が最終候補作に残っていたんですが受賞は逃しています。日本人の受賞はまだひとりもいません。最終候補に残ったのも小川洋子さんの『密やかな結晶』とこの『へヴン』の二作とのことです。

帰らない日曜日 / 監督:エヴァ・ユッソン

この映画を見て原作を読みました。下のリンクはその感想です。

端からただよう不穏な空気

時代は1924年、イギリスのアッパークラスが暮らす美しい田園風景から始まるのですが、端から不穏な空気がただよっています。事前情報なしに見ましたので、しばらくはその空気をつかみかねて戸惑いましたが、中盤から終盤にかけては集中して見られます。結果、いい映画でした。

物語の軸は、作家となった老年のジェーンが、メイドとして働いていたある一日の出来事を小説として書き上げ(ということだと思う)、なんらかの賞を受賞するということで、下の相関図の3つの時代が交錯して描かれていきます。

かなり大胆に編集されており、3つの時代が前後するだけではなく、中心となっている1924年にしても、マザリング・サンデーの一日を軸にジェーンとポールの出会いからの何シーンかが時系列関係なく挿入されたりします。最初は、ん? と戸惑いますが、しばらくすれば、事前情報がなくとも3つの時代だとわかってきますのでそれはそれでいいのですが、なぜここにそれを入れる? と感じることはしばしばです。やはり、導入部分はもう少しわかりやすくして、ある程度全体像を示してから、こうした手法で畳み掛けるように後半にもっていくなどの方法もあったのではないかと思います。その意味では手法が単調です。いくつかのテーマが浮かび上がってくるいい映画ではありますが、ちょっと掴みづらいところもあります。

で、端から感じられた不穏な空気ですが、背景となっている時代からくるものでした。第一次世界大戦が終結したのが1918年、主に描かれる1924年はそれから6年後です。相関図の黒く塗りつぶされた人物はその戦争で戦死しています。ジェーンがメイドとして働くニヴン家は二人の息子を亡くしています。

そうしたことがベースにあって、また、映画そのものの中でもジェーンが直面する「死」というものがひとつのテーマにもなっています。これが始終漂う不穏さの理由でした。

マザリング・サンデー

ジェーン(オデッサ・ヤング)はニヴン家のメイドです。今日はマザリング・サンデー(母の日みたいなものらしい)、メイドにも休日が与えられる日だそうです。

ニヴン家の夫婦の朝食シーン、妻のクラリー(オリヴィア・コールマン)が不機嫌です。夫ゴドフリー(コリン・ファース)は腫れ物にでも触るような気の使いようです。

この不穏さ、と言いますか、なんとも不自然な空気の意味がわからないと映画に入りきれないかもしれません。結局、クラリーはふたりの息子を亡くしたことを引きずっているわけですが、映画的にはかなり過剰に感じます。戦後6年ですからね、アッパークラスにとって跡継ぎが途絶えることは大変なことだとしても、一貫して悲しみに囚われたままというのは人物描写としては一面的過ぎます。後の三家のランチシーンでは夫の言葉に突然キレて、もともとシラーっとした場の空気ではあるのですが、それをさらに増幅させていました(いや、皆もらい泣きしてたかな…)。

三家のランチというのは、親しくしているニヴン家、シェリンガム家、ホブデイ家によるマザリング・サンデーのランチ会かとは思います。三家の夫婦と婚約中のポール・シェリンガムとエマ・ホブデイ、これですべてです。やはりクラリーだけではなく皆の喪失感は相当なものかも知れません。

ゴドフリーは朝食をとりながらジェーンに今日は好きなように過ごすがいいと言っています。ただ、ジェーンは孤児ですので、休みをもらっても帰るところもありません。電話が鳴ります。ジェーンが出ますと、シェリンガム家のポール(ジョシュ・オコナー)が、今日11時、裏口ではなく正面入口でと言います。つまり、ポールの両親もランチに出かけるために、11時に来て欲しいということです。ジェーンとポールは男女の関係にあるということです。

そのシェリンガム家もふたりの息子を戦争で亡くしています。ポールの兄たちです。ポールにはそうしたことからくる影が常に感じられます。

ポールの憂鬱と死

ジェーンがシェリンガム家のポールを訪ね、ふたりが愛し合う一連のシーンはこれまで見てきたラブシーンとはちょっと違った印象です。

このシーンだけではないのですが全体に人物をどアップで撮るカットが多く、ポールがジェーンの衣服を一枚一枚脱がしていくシーンも、ボタンをはずすカットであったり、衣服が下に落ちるカットであったり、とにかくどアップカットでつないであります。キスシーンもふたりの唇だけをとらえています。

ラブシーンにねちっこさがなくさらりとしてエロさを感じさせません。執拗な絡みがないこともあるとは思いますが、それ以上に会話とふたりの表情をとらえることに重きが置かれているからだと思います。

その会話のひとつにセックスにおける生殖という一面の具体的な会話があります。避妊のために膣外射精しているということかと思いますが、ポールがシーツについた精液をこれは自分の種だと語り、ジェーンがそれを手に取ったりします。過去のシーンだったと思いますが、血がついたシーツのシーンもあります。何を意図しているかははっきりしませんが、原作のものなのか、エヴァ・ユッソン監督のものなのか、いずれにしても映像として表現はエヴァ・ユッソン監督の特徴的なものなんだろうと思います。

ポールが種にこだわっているのは、兄たちを失い、自分がシェリンガム家の当主となるわけですから、自分の意志とは関係なく生きざるを得ないという憂鬱さを感じているのでしょう。

ポールは本来参加すべきランチ、ましてや婚約者とともに過ごすべきその時間にジェーンを呼び出して愛し合っているわけです。エマとの結婚を愛ではなく役割だと考えているということだとは思いますが、だからといってジェーンとの間に愛を感じているかどうかもはっきりしません。

ジェーンがポールとの関係をどう考えているかはこのふたりのパートではよくわかりません。もちろん結婚を望んでいるわけはありませんし、かと言って愛というものもあまり感じられませんし、主従関係によるものでもなさそうです。

実はこの映画、全体を通して人物像がみな現代的なんです。エヴァ・ユッソン監督は時代性をそれほど気にはしていないのではないかと思います。むしろジェーンを現代女性として描こうとしているフシがあり、その影響から映画全体も現代的な雰囲気をもっているのではないかと思います。この一連のパートのジェーンの振る舞いは現代女性そのものです。

ことが済んだポールは、ジェーンに4時までは誰も帰ってこないからここにいていいと言い、そして、「さようなら、ジェーン(Goodbyeだったか?)」と去っていきます。

ん? と、気になるシーンです。もしやと思いながら見ていましたら、やはりポールは車が道路から転落しそのまま炎上して亡くなります。事故か自殺かはわかりません。

現代女性ジェーン

言葉は忘れましたが、単語がノートに書きつけられるカットが2、3シーンあります。老年のジェーンが「once upon a time …」と言いながらのカットも同じノートだったと思いますので、ジェーンが回想していたんだと思います。その言葉はポールが語った言葉だったと思います(間違っているかも)。つまり、ポールとの出会いによってジェーンが学んでいくという描き方がされているわけです。

ポールがランチに向かった後、ジェーンはシェリンガム家を探索します。書斎から何冊かの本を抜き出し、興味深げにながめたりするシーンは象徴的です。そして、ポールのものだと思われる万年筆を愛おしく自分のものにします。万年筆なんですね。

そして、ニヴン家に戻ったジェーンはゴドフリーからポールの死を知らされます。その死を知った時のジェーンの表情、そしてその後ひとりになった時の嗚咽、さらに再びゴドフリーの前での悲しみを顕にできない苦悶の表情、演じているオデッサ・ヤングさん、なかなかの演技でした。

小説家になる3つのきっかけ

その後、ジェーンはニヴン家のメイドをやめブックストアで働くことになります。そこでドナルド(ソープ・ディリス)という男性と知り合い付き合うようになります。1948年のパートですが、ジェーンはすでに小説家として世に出ています。このあたりのことはなにも語られていません。

ドナルドは哲学の研究者です。ドナルドがジェーンに尋ねます。小説家になろうと思ったのはいつ? ジェーンが答えます。ひとつは「生まれた時」、ふたつめは「タイプライターをもらった時」、そして最後のみっつめは秘密、と。それぞれが映像として表現されています。

ジェーンは孤児です。ポールが亡くなったその夜、クラリーが嗚咽混じりでジェーンに語ります。私たちは何もかも失った(というような意味のこと)、だけど、あなたは孤児だから生まれた時から何も持っていないので失うものはない、と。ジェーンを力づけているともとれますが、そもそもクラリーはジェーンとポールのことを知らないわけですから、実際のところはアッパークラスの無神経さということになります。

これがひとつ目の「生まれた時」の意味、そして「タイプライターをもらった時」というのはブックストアのオーナーが使わなくなったからとタイプライターをくれるシーンがあります。

みっつ目は言わずもがなでポールの死であり、ポールの万年筆を形見のように引き継いだことです。

ドナルドの死

ドナルドの関係はお互いに尊重しあう一対一の対等な関係です。これもかなり現代という時代を意識した描き方でしょう。

そのドナルドが病に倒れます。シーンはあまり多くなく、さほど深く描かれるわけではありませんが、ふたりの関係には愛が感じられます。ジェーンはまたしても死に直面することになります。

1980年代はいらない

老年のジェーンは年相応のグレンダ・ジャクソンさんが演じています。ラストシーンを除いては、「once upon a time …」と1924年を思い出しながらノートに書きつけるカットが何カットか挿入されるくらいです。

そしてラストシーン、そのジェーンのシーンで玄関のベルがなります。扉を開けますと、カメラやマイクが待ち受けており、記者が受賞の感想をとコメントを求めます。さほど印象的な言葉ではありませんでしたので記憶していませんが、そのシーンでは、老年のジェーンが記者たちの後ろに立つ1924年のジェーンを見て互いに目を合わせるカットで映画を締めくくっています。

んー、ちょっと現実的過ぎましたね。

演じているグレンダ・ジャクソンさんが他の時代のジェーンとしっくりこないということもありますし、「once upon a time …」の数カットはともかくとしても、このラストシーンはなんだかテレビドラマのようで一気に映画の出来を下げているような感じがします(ペコリ)。

原作にもあるのかどうかはわかりませんが、せめてひとり静かに思いにふけるシーンにしておくくらいにすべきだったと思います。