息子の面影

悪魔的な暴力が観念的な描写で多くは伝わらず

映画には見る側にある一定程度の共通する現実意識がないとその良さが伝わってこないものがありますが、この映画もそのひとつです。

2020年のサンダンス映画祭で観客賞と審査員特別賞を受賞しています。監督はメキシコのフェルナンダ・バラデスさん、現在40歳くらいの方で、この映画が長編デビュー作のようです。

息子の面影 / 監督:フェルナンダ・バラデス

メキシコの現実

アメリカアリゾナ州に接するメキシコ国境付近で行方不明になった息子を探す母親の話です。上に引用した画像のように一見叙情的な映画かとも思えますが、実際には、物語的にも映像的にも説明的なものを排したストイックなつくりとなっており、そのために現実感を共有できない者には観念的にも見えてきます。

共通して持てない現実意識とは何かですが、バラデス監督がインタビューで語っています。

For more than 10 years now we’ve been experiencing a crisis of violence in Mexico. It’s a very complex phenomenon that involves drug trafficking, human trafficking, oil trafficking, migration, corruption, disparity, and social injustice, among other factors.

Women and Hollywood

メキシコでは10年以上も、麻薬密売、人身売買、石油密売、強制移住、汚職、格差、社会的不公正などに悩まされていると語っています。おそらく10年という年数自体はバラデス監督の感覚的なもので実際には数十年という単位なんだと思います。ウィキペディアには「メキシコ麻薬戦争」という項目まであります。

これはロードムービーなのか…

メキシコ中部の町グアナフアト周辺の荒涼たる地域に暮らすマグダレーナは、2ヶ月(数ヶ月か?)前に友人とふたりでアメリカに行くといって出ていった息子からの連絡が途絶えて心配しています。

アリゾナ州へ向かうと言っていましたので GoogleMapで距離を測ってみましたら、国境まで直線距離で 1,400kmです。札幌から東京経由で広島あたりまでの距離です。その先に何があるかの確信があるわけでもないのに、それでも徒歩やバスで移動する世界の話ということです。

マグダレーナは、友人の母(だと思う)と町の警察に赴き、消息はわからないかと尋ねます。役人はバスが襲撃されたらしいと遺品を見せます(ということだったと思う)。友人の母は息子のものだと泣き崩れ、役人はマグダレーナの息子ももうこの世にいないだろうと告げます。そして、書類(死亡確認書みたいなもの?)に署名するように求めます。

この映画の映像的な特徴ですが、カメラは主要な登場人物以外は映し出しません。このシーンでも相手の警官(かどうかは?)のカットはなく、マグダレーナたち二人を撮り続けます。また、この後はマグダレーナが息子を探し出そうとする旅が映画のほとんどを締めるわけですが、マグダレーナが情報を得るバス会社の誰だかわからない人物であったり、その情報で訪ねた襲撃されたバスから逃げてきた人物であったり、物語的には重要な人物でさえカメラはおさえようとしません。マグダレーナのバストショットを撮り続けるだけです(印象として)。

これが何を意図しているのかはわかりませんが、手法としてマッチしているかは疑問です。ダルデンヌ兄弟監督などはこうした手法をよく使い、それにより緊張感を生み出すのですが、残念ながらこの映画では緊張感がかえって失われています。

物語としてはロードムービーなのに、画の多くがロードムービーではなくサスペンス風の手法になっています。

ミゲルの登場は疑似母子関係か…

映画の中盤で、唐突に別人物の話が入ってきます。アメリカに密入国で入り、強制送還されるミゲルという若い男性です。メキシコに戻ったミゲルは母のもとに向かい、その途中でマグダレーナと出会い、行動をともにすることになります。

ミゲルが帰ろうとしている場所が地理的にどこかわかりませんが、感覚的にはアメリカから南へですし、マグダレーナはメキシコからアメリカとの国境付近へ向かっているわけですから北へという感覚です。その二人がともに行動するということが、実際の地理は分からないにしても、感覚的な位置関係にとても違和感を感じます。ミゲルが向かうその先にマグダレーナの目的地があるというような映画の展開になっています。

擬似的な母子関係を見せたかったのかもしれません。ただ、そうした叙情的なシーンは一切ありません。ただ二人で移動しているだけです。

ミゲルが家に戻りますと母はいません。ミゲルがその母を探そうとしませんのでどういうことなのかはよくわかりません。殺されたと考えたとすれば、それが日常的にあり得るという現実なんでしょう。

犯罪者集団は悪魔か…

マグダレーナは襲撃されたバスから逃げ出した人物を探し出します。その人物はマグダレーナの息子のことはわからないが、その友人のことは記憶しており殺されたと告げます。

その人物は襲撃されたバスの状況をまるで地獄のようであった(みたいなことだと思う)と語ります。この人物も画としては登場せず声だけで、その間、映像は襲撃シーンがアウトフォーカスで映し出されます。

この画の人物は息子ですのでこの画があったかどうかは記憶していませんが、概ねこうしたシーンで表現されており、その中にまさに悪魔の表現、炎を背景に悪魔の尻尾が動くシーンがあります。監督自身がどうかはわかりませんが、カトリックの国ですのでそうした価値観のシーンなんでしょう。

マグダレーナはミゲルのもとに戻ります。そしてその夜、ミゲルの家に車のヘッドライトが近づいてきます。何者かが襲ってきたということです。男たち(の声だった)の話す言葉は字幕がついていませんのでスペイン語ではないということでしょう。IMDbには North American Indian となっています。

ミゲルは射殺されます。逃げるマグダレーナを男が追ってきます。転んだマグダレーナに男が迫ります。振り返ったマグダレーナが見たものは息子の姿です。

そして、再びバスの襲撃シーン、犯罪者集団に脅された息子が一緒に行動してきた友人を何度も何度も打ち据え殺します。

マグダレーナは家に戻り、息子の死亡確認書にサインします。

マジックリアリズムか…

最初に書いたように見る側に現実感がともなえばいい映画と感じたかもしれません。残念ながら私には感じられず、また、映画の手法自体がバラデス監督の狙っていることとあっていないように思います。

上に引用したインタビューで、スリラーっぽくしたかったとともに、この映画は「It’s more lyrical than naturalistic.」と、リアリズムとは言ってはいませんが、現実感より叙情性のある映画だと語っています。

たしかにメキシコの荒涼たる風景には叙情性は感じられますが、主要人物のみのバストショットでつないでいく手法は叙情性とは真逆だと思いますし、その画にもあまり緊張感は感じられず、また演出だとは思いますが、マグダレーナを演じている俳優もかなり感情を押させた演技で通していますので叙情性というには無理があります。

おそらく狙いはマジックリアリズムなんだろうと思いますが、もうひとつ何かが足らなかったという映画です。

そもそも、あの犯罪者集団は何を目的に人を殺そうとしているのかが伝わってきません。貧しい人々を殺して何が得られるのかわかりません。もし、目的なき殺人という、まさに悪魔の仕業を描こうとしたのなら、それこそもっと現実感のある殺人者集団を描かなければ意味はないでしょう。