ノーバディーズ・ヒーロー

この面白さがわかれば、もう大人…

「現代フランスを代表する鬼才」とか「ゴダールが今年(2001年)最高の映画と評した」と紹介されているアラン・ギロディ監督の3作が公開されています。

え? 誰それ? ホントかなあとやや懐疑的ながらも見てみましたら、これ、面白い! です。

ノーバディーズ・ヒーロー / 監督:アラン・ギロディ

今どきの日本映画とは違った面白さ…

ただ面白いと言っても今どきのストーリー重視(日本の場合…)の映画とは対極にあるような映画ですので、たとえて言えば2、3日前に見た「#真相をお話しします」のような筋だけ追っていく映画の面白さ(があるとすれば…)とは次元の違った面白さです。

もちろん映画ですので物語はありますし、逐次コトは進展していきます。でもその進展によって起きることを予想しても無駄です。予想して楽しむような映画ではありません。

どういうことかと言いますと、この映画の登場人物はみな自分の身に起きることへの許容度がわれわれ一般人とはまるで違います(笑)。そこは怒るところだろ、それは断るところだろといったことが次々に起きるのですが、なぜかそのこと自体が大したことではないようにコトは進んでいくんです。

街で見かけたかなり年上の娼婦に恋(多分…)をし、売春には反対だからタダで抱きたいという男メデリック、あなたは特別だからと言いながらもまるで特別でないかのように執着なく受け入れる、実は夫もいるという娼婦イザドラ、そのすべてを知りながら愛しているからと女を決して離さず、それが嫉妬であるかどうかもわからない暴力を振るう夫ジェラード、たまたま(かどうかはわからない…)出会ったメデリックにお金をくれと言い、相手がそれに応えてくれる寛大な男だと分かってもそれ以上の多くを求めず、しかしながらメデリックがその寛容さで与えてくれるものは決して拒まないホームレスの青年セリム、システムエンジニアのメデリックに公私ともに迫り、仕事のアポをすっぽかされても、自分はゲイだからきみとは寝れないと言われても、まるで気にすることもなく迫り続ける女フロランス、そして、それぞれにどんな価値観で生きているのかわからないアパートメントの住人やホテルの従業員たち、こうした人々でつくられる映画です。

メデリックとイザドラの恋の行方?…

物語は、メデリックとイザドラの恋の行方、といっていのかどうかもよくわからない顛末(笑)と、その街で発生したテロ事件とホームレスの青年セリムの関係を軸に進みます。

といってもあまり物語そのものには意味はなく、この映画がやっていることはおそらくあらゆる一般常識をひっくり返すことじゃないかと思います。ひっくり返すという言葉も主張がありすぎるくらいにそれらをさらりとやってのけます。

ですので、たとえば冒頭メデリックは通りに立っているイザドラに話しかけてあなたを抱きたい(正確な台詞は忘れた…)というわけですが、そのことをタダで娼婦と寝ようとしたとか、口説こうとしたとか、一目惚れしたとかの使い古された言葉で表現しようとしても無理だということです。素直にメデリックとイザドラは恋をしたとシンプルに受け止めておきましょう(笑)。

でもそれでは物語として面白くはないですね。では何がこの映画の力となっているのか、それは俳優の実在感でしょう。人物の設定やキャラクターのリアリティではなく、メデリックという役とそれを演じるジャン=シャルル・クルシュさんの境界がなくなっている感じです。イザドラを演じるノエミ・ルボフスキーさんも、夫ジェラールのルノー・ルッタンさんも、他の俳優さん皆そうです。

現実にはこんな人いないだろうと思うその人が実際にいると感じられるのです。

で、メデリックとイザドラの恋ですが、ふたりがいざことに及ぼうとしますと必ず邪魔が入ります。イザドラから呼び出されて行った先のホテルではなぜかテレビがついており、その最中にテロ事件が発生してイザドラが大変だとそちらへ気がいってしまい、なおも続けようとするメデリックですが、そこに夫ジェラードが現れてイザドラは連れ去られてしまいます。その後もホームレスの青年セリムや仕事仲間のフロランスやアパートメントの住人たちがなぜかやってきて最後までうまくいきません。

そもそも、最後にはメデリックはゲイであるという話も出てきますし、セリムはそれを感じるからなのか、実はメデリックに気があったとか、他にもアパートメントの隣人ともどことなく怪しげな空気を感じさせたりしており、結局のところ、映画から感じられことは、セクシュアリティにおいても一般的な価値観を無力化すると言いますか、早い話別に何であってもいいんじゃないの、個々が自由であればそれでいいんじゃないのと思えてくるのです。

アラブ系の青年セリムはジハード戦士?…

この映画の撮影は2020年1月に始まったということです。構想やシナリオのタイミングを考えれば、この映画のテロ事件は2015年11月13日のパリ同時多発テロ事件やその後もフランス国内で毎年のように続くテロ事件から構想されていると考えられます。

アラン・ギロディ監督はインタビューで、テロ事件に関してあまり直接的なものではなくコメディの距離感のほうが自分にはあっていると感じ、不安や集団的被害妄想について様々な視点を取り入れて描いたと(フランス語からのGoogle翻訳の要約です…)語っています。

テロ事件発生直後にアラブ系の青年セリムがメデリックの前に現れて食べるものを買うお金がほしいとかアパートメントの中に入れてほしいと言ってきます。メデリックは一瞬躊躇はするもののお金を与え、その後アパートメントに入れ(部屋ではなく共用部…)、雨なので服が濡れているだろうと着替えを与え、洗濯しようかとまで言います。

その後メデリックは、そのセリムの身なりが逃げた犯人のひとりと似ているからと警察に通報します。メデリックはセリムが連行されていくところを階上の窓から見ています。

でもこれはコメディです。セリムは犯人ではないと釈放され、再びメデリックの前に現れ、なんの恨みつらみを言うわけでもなく部屋に入れてほしいと言うのです。もちろんメデリックは部屋に入れます。

その後もそんなやり取りや関係が続き、セリムはそこが自分の居場所であるかのようにくつろぎ、メデリックが出掛けるから起きて一緒に出てくれと言っても俺は寝ていたいと動こうとしませんし、その後の別のシーンでは夫のもとを逃げてメデリックのもとに転がり込んでいたイザドラとこと(セックスともいえない…)に及んだりするのです。

メデリックにはセリムはテロ事件とは関係ないことは分かっているのですが、それでも数人のアラブ系の若者たちと揉めごとを抱えていることを見せ、アパートメントの住人たちにはセリムがジハード戦士だと言わせ、だからといって排除するわけではなく、皆であれこれ言い争いながらも保護したりと、つまりアラブ系の人物に対して距離感を測りかねていることを見せています。

結局この件もよくわからないままに、そのアラブ系の若者たちにアパートメントが襲われ、ドアも壊され、それでもメデリック以下セリムもフロランスも住人たちも皆で飲み直そうといってアパートメントに入っていくのでした(笑)。

アラン・ギロディ監督はインタビューでラストシーンについてはシャルレーヌで終えたかったと語っています。シャルレーヌというのはイザドラの使っているホテルのレセプションに高齢の男性といつも一緒にいる未成年の黒人の女性で、メデリックが何度もイザドラはいるかと訪ねますのでシーンとしては割と多いのですがなぜラストシーンにしたかったのかはよくわかりません。シャルレーヌはセリムが好きだと言っていました。でもセリムはメデリックが好きです(笑)。

とにかく、そのシャルレーヌが待って!と叫びながら走ってくるカットで終わっていました。

そういえばイザドラはどうなっていましたっけ? メデリックとジェラールが殴り合うシーンがあり、傷ついたジェラールをかばって帰っていったような(記憶が曖昧…)気がします。

ひとりでいたくないひとりが好きなフランス人…

今ではエスプリなんて言葉はあまり聞かなくなりましたが、くすっと笑ったりニヤッとしたりする細かいギャグのような台詞も多いです。

最初にメデリックとイザドラがホテルにいるときにジェラールが飛び込んできて大変だから帰るぞというシーンになるのですが、その時イザドラに金は返してやれと言い、自分でポケットからくしゃくしゃの札を出して放り投げていました。メデリックはお金など出していないですね。こんな感じです。

テロ事件の続報としてテレビからは犯人たちが叫んでいたのは「アッラーアクバル」ではなく誰か(逃げた犯人かな…)人の名前を読んでいただけだと流していました。これも現実的なテロ事件からやや距離を置いた描き方をしようとしたそのひとつでしょう。

結局、この映画から感じることは、なんだかみんな求めあっているなあ、ひとりでいたくないんだなあということです。個人主義の国フランスですが、意外にも家族主義ですし、愛し合いたい人たちの国なんだなあと感じた映画です。

ああそう言えばインタビュー(2022年)で「最近興味をもった映画や監督は誰か」と聞かれたアラン・ギロディ監督は、即座にアルチュール・アラリ監督の「ONODA 一万夜を越えて」を上げ、しばらく考えてジャック・オーディアール監督「パリ13区(Les Olympiades)」、ケリー・ライカート監督「ファースト・カウ」と続けていました。