綾瀬はるかさんじゃなくてもいいんじゃないの…
綾瀬はるかさんの名前を見てポチッとしましたが、「こちらあみ子」の森井勇佑監督でしたか。なにせ、その映画、酷評していますので…。
綾瀬はるかさんじゃなくてもいいんじゃない…
綾瀬はるかさんを見に行ったのに、という言うわけでもありませんが、このトンボこと中井のり子役、綾瀬はるかさんじゃなくてもいいですよね。というよりも、まったく綾瀬はるかさんにあっていません。製作面から言えば、綾瀬はるかさんをキャスティングすべきキャラクターじゃないです。
ですので、この役を受けるということは、ある意味、挑戦的ということになります。綾瀬はるかさん、挑戦していますか?
まあ、挑戦するというほどシナリオ段階で人物像がしっかり書き込まれている印象はありませんが(想像です…)、それでも引き受けるのであれば、ほとんど出ずっぱりなんですからトンボという人物を俳優として作り上げるべきです。
「他者と必要以上のコミュニケーションをとることをしないのり子(公式サイト)」って、他者と話をしないということじゃありません。この映画の綾瀬はるかさんはただ決められた台詞を喋っているだけです。
これ、私、怒っていますね(笑)。
映画にしなくてもいいんじゃない…
森井勇佑監督が中尾太一さんの詩集『ルート29、解放』からインスピレーションを受けて生まれた映画ということです。
詩集に関するなにか記事がないかとググりましたがほとんど内容に関わるものはなく、どの程度詩集に沿った映画なのかははっきりしません。
映画はロードムービー風に作られてはいますが、ほとんどのシーンが断片的で、映画に必要なリズムとか流れというものがありません。ロードムービーというほどにロケーションが変化していくわけではありません。
トンボこと中井のり子(綾瀬はるか)が、鳥取の精神科病院に入院している木村理映子(市川実日子)に姫路にいる娘木村ハル(大沢一菜)を連れてきてほしいと頼まれて、ハルとともに姫路から鳥取へ国道29号線を移動していく話です。ただ、その途中で出会う人々にはまったく現実感のないエキセントリックな人々(に造形されている…)ばかりですので、早い話、ルート29であるかどうかなどほとんど意味はなく、ロケーションはどこでもいいような映画に感じます。
映画は意図的に現実感を消すように作られています。のり子が働く清掃会社の同僚たちも清掃しているようでしていませんし(笑)、のり子はその会社の車を盗んで鳥取から姫路に向かうのですが、清掃会社も盗難届など出すわけではありません。
姫路でハルを見つけるくだりもなんだかごちゃごちゃしていてよくわからずまったく映画的ではありません。ハルはどういう生活環境にあるんでしょう? 森の中でテント住まいをしているということなんでしょうか。映画ですから、仮にそうだとしてもそれはいいんですが、でも、後半になりテレビでハルが行方不明になっているというテレビニュースが流れますし、ラストではのり子は警察に出頭していました。こういうチグハグさが映画的じゃないという意味です。
とにかく、その後、のり子はハルにトンボと名付けられ、二人は車で姫路から鳥取へ向かいます。
途中、犬2匹を連れた赤い服の女(伊佐山ひろ子)と出会い、車を盗まれ、森の中では社会からドロップアウトした親子(高良健吾、原田琥之佑)に鮎(じゃないかも…)をごちそうになり、死人のおじいさんと遭遇してあの世に送り出し、のり子の姉(河井青葉)を訪ねて愚痴を聞き、時計屋のおばちゃん(渡辺美佐子)からは時計をもらい、そしてついにハルの母親木村理映子(市川実日子)と対面します。
でも、何もありません。理映子は、私は死んでいる(違うかも…)と言い残して去っていくだけです。わざわざ姫路から連れてきたのにそんだけ〜?!
そして、のり子はハルを連れて警察に出頭します。パトカーに乗せられていくハル(山の中をどこへ行くの?…)は路上を泳いでいく大きな魚を見ます。連行されるのり子には突如風が吹きます(?)。
詩が浮かんでこない…
どんな詩集なんだろうと興味もあり、中尾太一さんの詩集『ルート29、解放』を読んでみようかと思いましたが、図書館にもなく、それなりの値段がします。
この映画で描かれているような断片的なシーンが詩になっているんでしょうか。
いずれにしても、全体的に「死」のイメージがかすかに漂っている映画ではありますが、ただ「死」と言っても、この映画で言えば、死人のおじいさんがカヌーで仲間たちと去っていくシーンのイメージですのでファンタスティック黄泉の国といったところでしょうか。
そういえば、「こちらあみ子」で、あみ子の内面を描こうとしたのか白塗りの数人を出して船からあみ子を手招きするシーンがありましたが、同じようなイメージのシーンです。
ところで、その「こちらあみ子」を酷評したわけですが、原作である今村夏子さんの圧倒的な語り口で描かれたあみ子を感傷的に悲哀に満ちた描き方をしているからで、この映画でも若干そうしたところが感じられます。
いずれにしても、映画を見ても「詩」が浮かんでこないというのはまずいなあとは思います。まあ、見る側の想像力ということもあるかもしれません(涙…)。