こちらあみ子

小説の映画化は感想を映像にすることではない

むらさきのスカートの女』で2019年上期に芥川賞を受賞した今村夏子さんのデビュー作『こちらあみ子』の映画化です。原作は2010年の作品ですが、デビュー作にして太宰治賞、三島由紀夫賞を受賞しています。2020年に芦田愛菜主演で映画化された「星の子」も今村夏子さんの原作です。

監督の森井勇佑さんは現在37歳、この映画がデビュー作になります。

こちらあみ子 / 監督:森井勇佑

映画そのものの評価は難しい

あみ子次第の映画ですので、大沢一菜さんをキャスティングし、生かすことが出来たことをみればとてもいい映画ですし、一方、じゃあこの映画が何を伝えようとしているのかと考えれば、一般論では語ることが出来ない問題なだけにこれを今映画にしてどうするのだろうという気持ちが湧いてきます。

どういうことかと言いますと、おそらくですが、このあみ子を今現在の医師がみれば何らかの発達障害や自閉スペクトラム症という診断を下すのではないかと思います。そうなれば当然どう対処するかという問題になります。治療というケースもあるでしょうし、何らかのサポートをしていくということになると思います。

映画にはまったくそうした視点がありません。この映画にそうした視点を入れろということではなく、この映画が描いているのは理解されない者の悲哀です。その視点でいいのかということです。

大人たち、父親と母親はあみ子を持て余しています。映画が描く時点で言えば、父親はあみ子の言葉を聞き流しています。受け入れているようにみえて無視しているということです。母親は真正面から向き合おうとしますが、逆に心が折れて病んでしまいます。

映画が描いているのは、あみ子にはあみ子の世界があるが、まわりが理解しない、あるいはできないという状態です。

この映画はあみ子の世界を非現実のように描いています。あみ子の歌で一緒に行進したり、ラストシーンで船に乗ってあみ子に手招きしたりする10人くらいの人物たちです。白塗りしていたように思います。

あみ子を理解されない存在として遠ざけることにならないかということです。

原作を読んでいませんので読んでみようと思いますが、『むらさきのスカートの女』を読んだ印象では、おそらくそうした感傷的な視点はないでしょう。

映画は感傷を誘うことに適しています。この映画がそうした手法をとっているという意味ではありませんが、たとえば映画は風景ワンカットで涙を流させることも可能な表現媒体です。

こうした一般論ではどうしようもない問題は、なんにしろ強固な意志を持って描かなければ安易な感傷に流される結果になってしまいます。

あみ子の世界を描こうとしているか

あみ子は小学生、両親と兄と暮らしています。父親は会社勤め(多分)、母親は自宅で書道教室開き先生をしています。中程に両親は再婚であり、母親は実母ではないようなカットが挿入されています。母親は現在妊娠しており、臨月間近のお腹をしています。

あみ子は一風変わった子と言われています。学校やその行き帰りでは、同級生ののり君を慕っており、いつものり君のり君と探し回りあとをつけ回します。のり君の視点で言えばあみ子はストーカーなんですが、のり君はあみ子の兄から、あみ子は変わっているから面倒を見てやってくれと言われていると言って我慢しています。あまりのしつこさに腹を蹴るシーンと、後半には顔面を殴り(シーンはない)、あみ子が血を流して家に帰り、医者からは鼻の骨が折れていると言われるシーンがあります。

映画の軸となっているのがあみ子と母親の関係です。すでに映画の冒頭のシーンから母親はあみ子を自分には理解できないものとしてはねつけています。あみ子は同級生たちが教わっている書道教室に入れてもらえません。あみ子がふすまの隙間から覗いているところを子どもが見つけて、あみ子だ! と大声で叫びます。それも子どもたちの間のゲームとなっていることです。

母親が流産します。あみ子はのり君に「弟の墓」と板に書いてもらい庭に墓をつくり、母親に見せます。母親はその場で号泣して倒れ込み、その後心を病んでいきます。

家族が崩壊していきます。あみ子が中学生になった頃、兄は暴走族の仲間に入り、家に寄りつきません。母親は寝込んでしまい、その後映画としても登場しません。

父親は相変わらずあみ子に正面から向き合うことはなく、あみ子に引っ越そうかと言い、あみ子を祖母(父親の母か?)が暮らす山奥の一軒家に連れていき、あみ子を置いてひとりで帰っていきます。

翌朝(のような流れで)、あみ子は浜辺に出て(山奥なのに海?)遠くを見つめています。中程のシーンであみ子と一緒に行進をしていた白塗りの10人ほどの男女が船で現れて招きをしています。あみ子は手を振って(さようならの意志か?)います。船は去っていきます。

あみ子が見ている世界があの白塗りの人々だと理解するのはよくないでしょう。

小説の感想を映画にしても…

原作を読んでいませんのであくまでも想像ですが、原作にはあみ子が一風変わった子どもであるとの視点はないでしょう。一般的には変わっていると思われるあみ子の行為が淡々と書かれているだけではないかと思います。

(7/25)その後原作を読みました。

仮にそうだとして、2022年の今であれば、それを読んで、アミコは一風変わっているように見えるが、あみ子にはあみ子の世界があり、それがまわりが見ている世界とずれているだけだと理解することは容易いことです。

つまり、現在では少なくとも我々は、自分とは違ったものを見ている、あるいは価値観を持っている他者がいることを理解することは学んでいます。ですので、人それぞれであるにしてもそうした小説を読めば、この場合ではあみ子に感情移入して読むことが可能です。

その感情を映画にしたのがこの映画です。

それでどうなるかということに答えがありません。答えを描けということではありません。答えを見つけようとしているかということです。こうした小説の映画化の難しいところでしょう。