制作費がないのであればそれに見合ったこだわりでクオリティを上げるべき…
「シサㇺ」とはアイヌ語で隣の人といった意味らしく、歴史的経緯として和人(アイヌ以外の人)を指すようになったんだと思います。また、シサムの「ム」は、小文字表記が正しいアイヌ語の仮名表記です。ただ、小文字ですと検索に引っかからなくなりますので一部「シサム」表記も使っています。
ところで、映画冒頭に「史実に基づくフィクション」とありましたが何が史実なんでしょう?
史実に基づいていないと思うけど…
おそらくですが、この映画の中で史実に基づいている部分があるとすれば、松前藩が幕府からアイヌとの独占的な交易を認められていたこと、松前藩は家臣にアイヌの地域ごとの交易の権利を与えて管理させていたこと、そしてアイヌと松前藩の間に戦いがあったことくらいだと思います。
それ以外は、と言いますか、寛一郎さん演じる高坂孝二郎はじめ、ドラマそのものはすべて現在の視点からつくり出した創作だと思われます。こうしたドラマで一定程度史実をベースにするというのは当たり前のことであり、「史実に基づく」なんて入れるのは誤解を招きます。「フィクション」って書いてあるじゃないかって? それは言い訳です(笑)。
この映画の軸は高坂孝二郎(寛一郎)ですが、その孝二郎がアイヌコタンをまわり、松前藩の不平等交易の記録を残したように描いていても、それを託す相手が一体何者かも示さず、そして、託された男にこんなものを残しても何にもならないと言わせ、長持に放り込んでため込んでいるだけということをわざわざ見せているわけですから、言い訳以外のなにものでもないでしょう。
もちろん、この孝二郎のような人物を創作してはいけないということではなく、英雄的に扱ってはいけないことと、いい奴もいたんだよと都合の悪い歴史的事実を修正するようなベクトルを強調してはいけないということです。
この映画がそうであるかどうかははっきりしませんが、現代的価値観で過去を描く場合には陥りやすい点だと思います。
仮にいい奴もいたと描くのであれば、この映画ですと、もっともっと孝二郎はアイヌそのものを知ろうとしなくてはいけないですし、それに伴ってもっともっと苦悩しなくちゃいけないですし、安易に「歴史スペクタクル」などといってウケ狙いの映画にしちゃいけないということです。
それに全然「スペクタクル」じゃないんですけど…。
安易なドラマに頼っても…
松前藩士の高坂孝二郎(寛一郎)と兄の栄之助(三浦貴大)は松前藩から与えられているアイヌとの交易地に米などの交易品を持って船で赴きます。到着した深夜、不審な動きをする使用人善助に気づいた栄之助ですが、争いになり刺されて殺されます。
孝二郎は善助を兄の敵として追います。しかし、返り討ちにあい、川に落ち、流されます。
善助、強い! というツッコミは置いておいて(ゴメン…)、孝二郎は川岸に流れ着いたところをアイヌの人々に助けられ、その後かなり長い期間の看護を得て再起します。そしてしばらく(これもかなり長い間ではなくては辻褄が合わないけど…)そのアイヌコタンに滞在するうちにアイヌ語を学び、これまでの自分のアイヌ観が間違っていたと気づきます。
この一連のシークエンスがダメですね(ゴメン…)。
孝二郎が客人として扱われたり、コタンの長であるアㇰノ(平野貴大)を平和主義者にしたり、コタンの女性ヤエヤㇺノ(佐々木ゆか)との交流を入れたりと、まあ言ってみればありきたりのドラマパターン以上のものはなく、これでは後半の孝二郎という人物に説得力がありません。
長々と床に臥せったシーンを見せなくても、もっとアイヌの日常を見せて交流を描けばいいのにと思います。まあ余計なことですね(笑)。
で、そのコタンには和人をよく思わない男(こういうありきたりの人物もやめてほしい…)や他のコタンから嫁いできて(と言っていた…)夫と子どもを和人に殺された女リキアンノ(サヘル・ローズ)がいます。
また、その頃、他の地域ではアイヌと松前藩の和人との戦闘が始まっています。しかし、このコタンの長であるアㇰノは戦いには加わらないと言います。
このあたりから辻褄合っているようないないようなシーンが続きますのであまりはっきり記憶していませんが、流れとしては、リキアンノと好戦的な男が戦いに参加すると言ってコタンを出ていき、孝二郎がその後を追いますとそこに善助がいます。善助を問い詰めますと、自分は津軽藩の間者であり、松前藩の不正を探り幕府に進言することが目的だと言います。孝二郎はそれに共感して二人を脱出させようとしますが、松前藩の兵士に見つかり二人は殺されます。
さすがにこのシーンは目が点になりました(笑)。浜辺で二人が殺されるわけですが、一緒にいたはずの孝二郎がまったく登場しません。殺されるところをじっと見てたんでしょうね。
で、孝二郎はコタンに戻ります。そこに松前藩の鉄砲隊が襲ってきます。孝二郎はその前に立ちはだかり、よく見知った松前藩の隊長(緒形直人)を説得します。隊長は鉄砲を下ろせと命じ、そのまま退却していきます。
あちゃ?!
孝二郎は善助から預かった幕府への密書を善助に言われた通りある男(要潤)に届けます。その男は、もう遅い、見ろ、幕府の命で津軽藩がアイヌ討伐の手勢を出したと海辺を指差します。
海には津軽藩の船が! となるはずでしたが、一艘の船が燃えていました? そして浜辺にはたくさんのアイヌの死体が…で記憶はあっているのでしょうか。これでは変と思う気持ちが記憶を混乱させているようです。
とにかく、孝二郎は松前藩の我が家に帰ります。が、その後たびたび各地のアイヌコタンを訪ねて、松前藩の不正を書き留めて誰ともしれない男に手渡す日々をおくります。
ちょっとしょぼくないですか…
制作費の問題なんでしょうか、映画としてのクオリティがしょぼ過ぎないかと思います(ゴメン…)。
言い方がきつすぎますね。言いたいことは「スペクタクル」に見合う制作費がないのであれば他の点でクオリティを上げる努力をすべきじゃないかということです。
たとえばキャスティング、調べていませんので間違っていたらごめんなさいですが、この映画、アイヌの俳優さんを使っているんでしょうか。俳優業を生業としている方じゃなくてもいいじゃないですか。映画のクオリティは何にこだわるかです。映画のクオリティは安易なドラマに頼らなくても存在感のある人物がそこにいるだけでも高まります。
それに、すでに書きましたが、アイヌの日常をていねいに描けばそれだけでも見られます。孝二郎がアイヌの人々の実際を見て、これまでの自分の価値観が壊れていく過程を描くだけでも見られます。
こういう映画だってあります。
要は映画(だけじゃないですが…)はドラマだけじゃないということです。