「二作目を期待しますが、撮らないかもしれませんね」と書いたけど、撮りましたね…
「僕はイエス様が嫌い」の奥山大史監督、その映画を見たのはちょうど5年前です。レビューを読み返してみましたら「びっくりするくらい映画がまとまっています。若いのに老成という言葉まで浮かんで」くるとまで書いています。
それに「二作目を期待しますが、撮らないかもしれませんね」とも書いています(笑)。
ハンバート ハンバート「ぼくのお日さま」…
なぜ「もう撮らないかもしれない」と書いたのかと言いますと、「僕はイエス様が嫌い」の制作自体は青山学院大学(多分…)の卒業制作のようですが、その後劇場公開されたときにはすでに広告会社(多分、博報堂…)に就職しており、おそらくこの世代の人にとってみれば映画は特別なものではなく映像コンテンツのひとつと捉えているだろうと想像したからで、それに、映画のつくり自体はとてもうまいのですが、これを撮りたいといった熱のようなものは感じなかったからです。
でも撮ったんですね(笑)。
やはり画はうまいですね。ただ、「びっくりするくらいまとまっている」とか「老成」なんて感じはなくなっていました。広告業界でのキャリアで何かが変わったんでしょう。余裕かもしれません。もともとの撮り方とか画のうまさはおそらく育ってきた環境からのものでしょう(まったくの想像です…)。それは変わっていないです。
映画としては小品の印象です。エンドロールにまさにこの映画のことが歌われている曲が流れていました。
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「ハンバート ハンバート」という佐藤良成さんと佐野遊穂さんのデュオグループの「ぼくのお日さま」でした。
公式サイトには、奥山大史監督がお二人に手紙で曲とタイトルの使用をお願いしたとあり、この曲が10年くらい前に発表されたものであることからすれば、この曲から発想された映画なのかもしれません。そのあたりことは本人じゃないとわかりませんが、結局、曲やタイトルの使用は了解され、さらに映画の音楽も佐藤良成さんが担当されることになったようです。
ぼんやりしたもの、でも伝わるもの…
「僕はイエス様が嫌い」はもう少しはっきりした映画だったと思いますが、今回はかなりぼんやりしたものになっています。言葉でも画でも説明的なものは一切入れずにつくろうという意図がはっきりしています。
小学6年生のタクヤ(越山敬達)と中学一年生のさくら(中西希亜良)、そして元フィギュアスケーターの荒川(池松壮亮)の物語です。
北海道のどこかです。夏のワンシーンから始まります。正確な意味の夏ではなく雪がないということです。タクヤが野球のユニフォームを着てほぼカメラ目線で立っています。ボールがタクヤの頭上を越えていきます。友達のコウセイ(潤浩)がボールを追っかけていきます。タクヤはまったく動きません。なにか違うものを見ているようです。
ラストカットもカメラ目線のタクヤだったと思いますのでなにか意図があるのでしょう。ラストカットはほぼ一年後、タクヤは中学生になっています。
野球の次のシーンはもう冬、タクヤがアイスホッケーのキーパーをやっています。矢継ぎ早にシュートされています。クラブハウス(控室…)で仲間たちがキーパーのタクヤに不満(強くはない…)を言っています。コウセイが、だったら自分がやればいいとタクヤを擁護しています。
このコウセイ、その後も何シーンか登場しておりとてもいい感じでした。いいところを持っていっていました(笑)。
雪のないときは野球、そして雪が降ればウィンタースポーツ、この映画ではアイスホッケーいうことです。タクヤはそのどちらもまったくうまくありません。と言いますか、どういう意図かはわかりませんが、タクヤが競技に参加しようと積極的になるシーンがまったくありません。ただ立っているだけというシーンばかりです。後にタクヤはフィギュアスケートを始めますが、ワンシーズンにしてアイスダンスのバッジテストを受けるまでになりますので、スポーツ系が苦手というわけでもありません。
人物像をはっきりしたものにしていないという、こうしたところからも、ぼんやりしたもの、でも何か伝わるものをつくろうとしているんだろうと思います。
さくらにしてもほぼ同じで、母親(山田真歩)の設定としてさくらにフィギュアスケートをさせたがっているという程度で、さくら自身がどう思っているかとはまったく描かれません。
前半が退屈なのはそうしたことからということだと思います。
タクヤを吃音にしているのはなぜ?…
タクヤには吃音があります。ただ、それを気にして言いたいことを言えないというようなつくりにはなっていません。吃音そのものにも焦点を当ててもいません。タクヤが吃音であることにドラマ的な意味はなく、その点ではハンバート ハンバートの歌詞から思い描くものとは随分違います。
タクヤはスケートリンクで華麗に滑るさくらを見て目が離せなくなります。初恋のような感情でしょう。その日からひとりで黙々とスピンの練習をするようになります。
タクヤの気持ちは、「ぼくのお日さま」の歌詞、
こみあげる気持ちで
ぼくの胸はもうつぶれそう
きらいなときはノーと
好きなら好きと言えたら
とは違って、好きを言えないわけではなく、明らかに好きを行為で語っています。
それを見たさくらのコーチ荒川(池松壮亮)が「アイスホッケーの靴じゃスピンはできないよ」とフィギュア用のスケート靴を貸してくれます。
荒川はその後もタクヤを気にかけ、やがて直接教えるようになります。そして、さくらにタクヤとアイスダンスをやってみないかと提案し、タクヤとさくらのアイスダンスの稽古が始まります。
というのが前半で、率直なところ、かなり単調な展開です。雪景色ですので美しいと言えば美しいのですが特別なものではありません。逆光とスモーク(かどうかはわからないが…)を多用しています。スケートリンクでのさくらのスケーティングは窓から差す光の中で見せています。
屋外でも逆光を使っています。自然のスケートリンクでの3人のシーンはこの映画の見せ場だと思います。
映画的には前半は物足りませんが、後半になりますとやっと映画的緊張感が生まれてきます。
さくらの感情を放っぽり出したままでいいのか…
結局、こういうことでした。
前半にも、ん? と気になるカットがあります。荒川は五十嵐(若葉竜也)と暮らしているようで、ダブルベッドの住まいのカットがあります。荒川と五十嵐は付き合っているという関係にあり、どうやら五十嵐が父親の死によって家業のガソリンスタンドを継ぐことになって故郷に帰り、荒川はフィギュアスケートの道を諦めて一緒にここにやってきたということのようです。
後半になりますと、その関係をはっきりと示すシーンが何シーンかあります。
そしてもうひとつ、さくらの友だち(知り合い程度のよう…)が荒川を見て、さくらになにかを語りかける(台詞を記憶していない…)シーンがあり、後から思い返せば、さくらが荒川にコーチプラスアルファの感情を抱いていることを見せていたようです。
私はあまりそうとは思いませんでしたので、自分のコーチであるはずがタクヤに一生懸命になっていることに嫉妬しているのだろうと見ていたんですが、結局、関係を単純化(あくまでも単純化…)しますと、タクヤはさくらが好き、さくらは荒川が好きという関係にあり、ある時、さくらが荒川と五十嵐のやや親しげな(程度だった…)ところを見たために、さくらは荒川に、先生はタクヤくんが好きなの? 気持ち悪い、と言ってすべての関係が壊れてしまうことになります。
そこまで短絡的に結びつけるのもどうかとは思いますが、とにかく、荒川は五十嵐からも、お前は本当にこれでいいのかと問われ、別れる、つまりはフィギュアスケーターの世界に戻るということ(じゃなければ映画にならない…)だと思いますが、フェリーに乗って東京(しかないでしょう…)に戻っていきます。
ここでもそんな簡単な関係だったのと思います。きっと春まで悩みに悩んだってことなんでしょう。
春になっています。中学生になったタクヤとその地を去っていく荒川が出会い、そして、その後、タクヤはさくらにも出会って終わります。
こういう映画に突っ込むところじゃありませんが、その狭い生活空間の中でそれはないんじゃないのとは思います。
それに、どちらかと言いますと、ぼんやり描いてはいけないことで、もっとはっきりとさせるべきテーマだということです。さくらのことです。「気持ち悪い」と言わせて放っぽり出したままではダメでしょう。タクヤとさくらを描いているようにみえて、結局、荒川でしか映画に緊張感を出せないということではさらにダメでしょう。
やはり、映画はこれを描きたいという強い気持ちがないと見ていても伝わってくるものがありません。