そばかす

三浦透子主演のポリコレ的ホームドラマ

三浦透子さんのうまさが光り、前田敦子さんの異星人的存在感(笑)が光るポリコレ的ホームドラマです。監督は劇団「玉田企画」を主宰する玉田真也さん、脚本はアサダアツシさん、どちらも初めて見ます。

そばかす / 監督:玉田真也

三浦透子、そして前田敦子という俳優

三浦透子関連出演作

前田敦子関連出演作

三浦透子のうまさ、前田敦子の存在感

恋愛感情を感じたことがない、恋愛感情自体がわからない、性的欲求も感じたことがないという30歳の女性蘇畑佳純(そばたかすみ)を、三浦透子さんが蘇畑佳純なのか三浦透子なのかわからないくらい自然体で演じています。

一方、映画が後半に入り、満を持して(笑)登場する佳純の中学生時代の同級生の元AV女優世永真帆(よながまほ)を演じる前田敦子さんは、前田敦子でしかない世永真帆として登場します。

おもしろいですね、このふたりのシーン、佳純は本当にアロマンティック・アセクシュアルに見えますが、真帆は元AV女優であろうがなかろうが前田敦子さんにしか見えません。

三浦透子さんの細かい表情の変化、目の動き、何気ない振る舞い、返しの台詞の間合い、すべてが佳純そのものです。と言うよりも三浦透子さんによって蘇畑佳純が初めてここに存在したということでしょう。

でも、映画的存在感という意味では前田敦子さんには勝てません。前田敦子さんはどんな映画でも前田敦子の映画にしてしまいます。三浦透子さんへの批判ではありません。これは仕方ないんですね、三浦透子さんのようにうまい俳優はいい映画に巡り合わないとうまさの壁を超えて突き抜けることはできません。

残念ながらこの映画はうまさは光っても突き抜けられる映画ではなかったということです。つまり内容は多様性をうたう先進的なものにみえても、その実古くからあるホームドラマ的な映画だということです。

ポリコレ的ホームドラマ

蘇畑佳純(三浦透子)30歳、音大を出てチェリストを目指していたようですが挫折して現在はコールセンターで働いています。ただ、この映画は佳純がなぜ挫折したのかにはまったく触れませんし、そもそも興味もなさそうです。最後までアロマンティック・アセクシュアルの佳純で一点勝負の映画です。

ではあるのですが、そもそもこの映画、佳純がセクシュアリティという点でなにか問題を抱えているようには描かれていません。自分は恋愛に興味がないし、これまで誰にも恋愛感情を感じたことはないと、佳純ははっきりアロマンティック・アセクシュアル宣言を出来る人物です。

取り巻く人物もセクシュアリティや生き方の多様性を理解する人たちです。

佳純の同級生でゲイの剛志は居づらくなって東京から戻ってきたと言いながら佳純にさらっと自分はゲイだと言います。元AV女優の真帆(前田敦子)は写真撮影や握手を求められれば皆が見つめる中でも笑顔で応じます。それを知った佳純はなんの衒いもなく、女優だなんてすごいじゃない!と応えています。唐突に登場する(友情出演だからか…)保育士の新人(北村匠海)は佳純が作ったデジタル紙芝居「新作シンデレラ」を見て感動した(違ったかも…)と言います。

他の登場人物も皆極めて健全な人物ばかりです。

佳純が強制的に見合いをしたラーメン屋のお兄ちゃんは今はその気になれないと正直に自分の気持ちを話し、自然な成り行きで佳純に好意を持つようになれば告白もします。断られた後にプライドが傷ついたのか捨て台詞を投げつけていくことも含めてヘテロとしてはありがちなことでしょう。

佳純の家族も一定程度の本音をぶつけ合える家族という意味ではごく一般的で健全な家族です。母親は始終、結婚、結婚という人物としてパターン化されています。妹夫婦は同居ではありませんが頻繁にやってきては夫の浮気がネタになる夫婦です。

で、何が問題なのでしょう?

佳純の悩みはなんだろう?

佳純が海を見つめるシーンがあります。何を考えていたんでしょう? 恋愛や結婚については今のままでいいと言っていることに迷いはなさそうです。

やはり、どう生きるかという存在そのものの不安ですかね。

最初に、この映画は佳純の挫折に興味をもっていないと書きましたが、なぜもっとそこに焦点をあてないのでしょう。ラスト近くのシーン、真帆(前田敦子)の結婚式で佳純はそれまで長く遠ざけてきたチェロを演奏します。そしてそれを機にきっぱりとチェロをやめる宣言します。ずっと迷ってきたということです。

佳純が迷っていたのは、直接的にはアロマンティック・アセクシュアルの自分ではなく、それはあるにしても、またそれが関係しているかもしれないにしても、もっと原点的な迷いがチェロにあるということだと思います。そういう設定のシナリオでなければこんなオチ的まとめにはなりません。

佳純の父親の存在が曖昧です。父親はうつ病で休職中らしく毎日家にいます。これもまた何があったのかにまったく触れられないのですが、それは置いておいて、ある日、父親が倉庫でチェロを手入れしていますと、そこに佳純が入ってきます。この時、佳純に特段の反応が感じられませんでしたので、なぜ父親がチェロを手入れしているのかよくわかりませんでしたが、父親はチェリストとしての佳純に期待していたのか、なにがしか父親のうつ病と佳純の挫折が関係してるという設定がされている気配があります。というのは、佳純のチェロをやめる宣言後のシーンが父親のうつ病が回復したかのように家族全員で大笑いするシーンになっています。

こうしたことを放っておいては佳純の人物像が深まりません。三浦透子さんのうまさで持つにしてもそこからもう一歩進めなければ映画になりません。

佳純はトム・クルーズの「宇宙戦争」が好きだと言います。この映画のトムは逃げているから好きだと言います。そしてラストは佳純が突如走り出すシーンで終わっています。

当然映画的には逃げようとして走っているわけではなく、逆に何かが吹っ切れた状態で走り出しているわけですから、トム・クルーズの話は逆説的な意味合いということです。残念ながらそれがあまり生きていません。

でも、とにかく、俳優は皆うまいですし、間合いもいいですし、話の展開も小気味いいですし、内容も今どきの価値観が網羅されていますし、面白い映画でした。ただ、早い話うまく出来すぎているということでしょう。やはり映画は健全なものを描くのではなく、健全じゃないからどうしようということから始めるべきものだと思います。