ドライブ・マイ・カー

細かすぎて伝わらないと音が加福に言う

濱口竜介監督、私個人としても評価は高く、大いに期待する監督のひとりですので批判という意味ではなく言えば、映画としてはちょっとやり過ぎじゃないかと思います。言い方をかえれば、力が入り過ぎている感じがしますし、映画の特質である(と私が思う)直感的にわかる(伝わる)ことがおろそかになっています。

それもまあ、本人がわかっていることなのかもしれません。映画の中で、自分の舞台は細かすぎて伝わらないと妻に言われると加福に言わせているのはそういうことなんでしょう。

ドライブ・マイ・カー

ドライブ・マイ・カー / 監督:濱口竜介

村上春樹よりもチェーホフ 

村上春樹氏の同名タイトルの短編小説「ドライブ・マイ・カー」が原作となっています。映画を見る前に読んだ書評、感想がこちらです。

映画は、原作とはまったくと言っていいほど違ったものになっています。

原作に登場するのは、加福(西島秀俊)、渡利みさき(三浦透子)、高槻耕史(岡田将生)の3人だけです。それに高槻の場合は、登場といっても、加福がみさきに語ったことが回想シーンとして書かれているという意味であり、妻の音に至ってはそれさえもありません。

前半は、女性がする車の運転に懐疑心をもっている加福が、専属ドライバーとしてみさきを信頼することになる経緯と、そして、みさきが運転するその車の中で、亡くなった妻のことを思い起こし、妻が自分以外の少なくとも4人の男と寝ていたことが語られます。あくまでも語られるのは加福自身の思いであり、妻がどうであったかということではありません。当然、映画のように音が他の男と寝ている現場を目撃することはありません。

そして後半は、加福とみさきの会話になり、加福が、妻の死後、妻が寝ていた男のひとりである高槻と会って話をしたことが客観的記述(ふたりのそのシーンとして)を織り交ぜて語られ、最後は、加福が演じている「ワーニャ伯父さん」のテキストを引用して、過去のことなど考えてもどうしようもない、それを受け入れて生きていくしかないと締められます。

で、映画が原作とまったく違ったものになっていると考えるのには2つの理由があり、ひとつは高槻が加福と対等な人物、いや、加福を叩きのめすような人物、今の言葉で言えばマウントを取るような人物になっていることであり、もうひとつは、非存在である音が生々しい実在感をもった人物として存在していることです。

「ワーニャ伯父さん」 

原作でもチェーホフの「ワーニャ伯父さん」は、俳優である加福がワーニャを演じる舞台に出演していることから、その一部テキストが最後のまとめとして引用されてはいます。しかし、映画のように物語の軸として取り入れられているわけではありません。

こういうことではないでしょうか。

濱口竜介監督がインタビューで、最初にプロデューサーから提示された村上春樹氏の小説は別のものだったが、それでは構想がふくらまず、この「ドライブ・マイ・カー」ならということで企画が始まったと語っているのを読んだ記憶があります。つまり、濱口監督は、原作そのものよりも、チェーホフの「ワーニャ伯父さん」が使われていることにひかれ、そこから構想がふくらんだのではないでしょうか。

高槻は教授+アーストロフか?

憶測はさておき、まず、高槻の人物像がまるで違っていることについてですが、映画では、脚本家である音が寝物語のように紡ぎ出す女子高生の物語の決定的なラストシーンを高槻が加福に語ります。

そのことだけでも、音との関係において高槻のほうが優位に立つわけですが、その物語は音とのセックスと直結しているわけですから、高槻は加福に、俺はお前の妻と寝ていたぞと正面切って突きつけているわけです。

村上春樹氏の小説で、主人公の男がこんな屈辱的な立場に置かれることはありえません。あのシーンで加福は完全に高槻に飲み込まれています。村上春樹氏が書く主人公の男は、どんなに苦境に陥ろうとも必ず他人に対して精神的に優位な位置に置かれます。

この原作で言えば、加福にとっては妻が他の男と寝ていたことはショックではあっても、それを知ってなお冷静でいられる自分という存在こそが重要なのであって、高槻と会って話をしても、何だ奥行きに欠けるつまらない男だと感じ、自分はお前が妻と寝ていたことを知っているんだぞと優位に立って、あるいは立とうとしている人物です。さらに言えば、妻のことを話したみさきに「奥さんはその人に惹かれたいたわけじゃないと思う、女ってそういうとことがある」と言わせてしまう男です。村上春樹氏が書く男はそう言う人物です。

なぜこうなってしまったのか。多分、「ワーニャ伯父さん」の人物をこの物語に反映させたからだと思います。

「ワーニャ伯父さん」についてあまり詳しく書きますと長くなりますので、ウィキペディアでも読んでいただくとして簡単に書きますと、ワーニャは妹の夫であった教授に資金援助をしていたのですが、妹が亡くなり、教授は若く美しいエレーナと再婚し、今は引退しワーニャのもとに来ています。教授はしょうもない男で、ワーニャは裏切られたと思っています。また、ワーニャはエレーナに心を奪われ言い寄りますが相手にされません。

アーストロフは教授の病をみるためにワーニャのもとに出入りしており、実はアーストロフもエレーナのことを思っており、またエレーナもそのことをわかって自分に好意を持っていると考えています。ふたりが熱く抱擁しキスをする場面があり、それをワーニャが目撃します。

この人間関係の教授とアーストロフの人物像が、漠然としてではありますが、高槻に反映されているのではないかと思います。

原作でも、ラストシーンおいては加福にはワーニャが反映されますが、高槻との会話のシーンで高槻にマウントをとられることはなく、必ず加福が優位な立場に立ち、高槻を見下しています。

こうした主人公の男の立ち位置は村上作品にはかなり重要なポイントではないかと私は思います。

音は非存在でなければ… 

映画が原作とはまったく違ったものになっていると考える理由のもうひとつは、音を実在感のある存在として登場させていることです。

この原作だけではなく多くの村上作品においては、この非存在、あるいは喪失が重要なテーマになっていると私は考えています。その音を実在感をもって登場させるということは、それだけで原作とは随分違ったものなることを意味します。

なぜ、音を実在感をもつ人物として登場させたのか?

映画にするには原作だけでは物語が足りないということもあるかとは思いますが、その決断をさせたのは、やはりチェーホフでしょう。

ワーニャを演じることになった高槻がまったく加福の演出意図を理解できずに、ある意味挑戦的な態度を取ることに対して加福は、チェーホフの言葉の重要性を語り、テキストが語りかけてくるはずだ、役者としてそれを真正面から受け止めろ(ちょっとつくった)と答えます。

つまり、チェーホフの作品からは悲しみや空虚さというものが強く感じられるわけですが、その空虚さを喪失感と言い換えるならば、チェーホフはその喪失感を言葉で語ろうとし、村上春樹は、どれだけ言葉を駆使しようとも埋められない喪失感を語っているとも言え、濱口竜介監督は、あえてかどうかはわかりませんが、その埋められない喪失感を言葉で語ってみようとしたんだと思います。

話が複雑になりすぎてテーマが見えない

音の寝物語

映画の音は脚本家です。脚本家は言葉で物語を作り出します。

音が物語を紡ぎ出す方法はかなり変わっています。音はセックスのときになにかに取り憑かれたように物語をつぶやき、しかし本人はそれを忘れてしまっていますので、翌朝、加福がメモにして音に渡すということです。

そのひとつが冒頭の加福とのセックスシーンで語られます。女子高生が、同級生の男の部屋に幾度も忍び込み、そのたびに自分の証を残してくるというもので、その部屋で自慰行為をしたり、タンポンを置いてきたり、下着を残してくるという話です。

ここまでは加福とのセックスで語られた物語ですが、その続きは、映画の後半に加福が高槻から聞かされます。このシーンが先に書いた高槻が加福に対して決定的優位に立つシーンです。

高槻が語った続きはこうです。 

女子高生はある日同じようにその部屋に忍び込みます。しかしその時、何者かが家に戻ってきます。男子生徒本人か、あるいは両親か、いや、それは空き巣だったのです。そして、女子高生は空き巣にレイプされそうになり、机の上の鉛筆を空き巣に突き立てて殺します。

この物語をセックスをしながら、それも夫とのセックスでの物語のその続きを他の男とのセックスで語るというのは相当に生々しいです。

音の物語にはもうひとつヤツメウナギの話があります。その内容も、どこでどう語られたのかもはっきりは記憶していませんが、これも同じように音という人物があまりにも生々しく、加福や高槻の喪失感を吹き飛ばしてしまうくらいに生々しく目の前に現れてしまいます。

音をこれだけ実在感のある人物にしてしまいますと、原作の基本的テーマである、加福がなぜ音が自分以外の男と寝ていたのか今となっては知る由もないという、もう知ることができないという絶対的な喪失感が消え失せてしまいます。

加福はそのことを知りたいわけではありません。もう知ることができないことを嘆いているだけです。知ろうとしたところで仕方がないということがこの原作の基本的なテーマであり、今現在、喪失感を抱えている加福自体に意味あるのであって、そもそも加福は音のことなど知ろうなどとはしていません。少なくとも4人の男(原作にある)と寝ていたことを知りながら、それでもなお夫婦生活を営み日常をやり過ごしていたわけですから、加福は音のことなどに興味はもっていません。なぜ音は自分以外の男と寝たんだろうと思い悩む自分を愛おしいんでいるだけです。

この映画は、音の人物像を実在感を持って表現しようとしたがために映画のテーマが何なのかをあいまいにしてしまっているように思います。

過剰な言葉

原作が使っている「ワーニャ伯父さん」のテキストはラストシーンだけですが、映画ではカセットテープに録音されたテキストが車の中で始終流されます。加福がワーニャを演じるためにその間を空白にし、相手の台詞を音が読んでいるものです。音の台詞は棒読みです。後半には本読み稽古や立ち稽古もあるわけで、それらのほとんどが、感情の込められていないただ音の羅列と聞こえるような棒読みとして提示されます。

また、加福の演出する舞台は多言語演劇ですので、日本語、韓国語、中国語、そして韓国手話が入り混じります。

実際にそうした演劇があるようですが、この映画では、それをひとつの作品として見せるのではなく、一部分が断片的に挿入されているだけです。

わかってやっているにしても、映画でそれをやられるのは、はっきり言って疲れます。

当然ながら我々は言葉を単なる音として聞いているわけではありませんので、音の羅列を提示されれば、まずその音を意味あるものとして再構築する作業をせざる得ませんし、その上で映画の中でそれがどういう意味を持つのかを考えていくことになります。

やろうとしていることはわからなくもありませんが、映画が挑戦すべきことには思えません。所詮映画はフィルム、あるいはデータに固定されるものであり、生身の人間がその時の熱量でもってテキスト以上のものを他者に伝えうるものではありません。

ただひとつだけ、「ワーニャ伯父さん」の舞台のラスト、ソーニャの韓国手話には感動します。

ただどうでしょう、あのシーンこそ、それまで過剰なまでに言葉と意味を切り離し、人が人に伝えることとはどういうことなのかを探ろうとしてきたわけですから、少なくとも、あのシーンの加福はソーニャの手話の手を追うのではなく、ソーニャの身体の動きと空気の流れを全身で感じ、さらに言えばじっと宙を見つめ涙を流すべきだったのではないかと思います。余計なことですが。

高槻の殺人

「ワーニャ伯父さん」の初日の直前、高槻が殺人容疑で逮捕されます。

これはさすがに映画を混乱させます。殺した相手は映画の物語の中ではまったく意味がない人物です。結局、殺人という行為に意味があるのではなく、加福にワーニャを演じさせるために高槻を消す必要があったという小手先のテクニックにしか見えません。

みさきの物語

みさきの物語は原作からは多少装飾されていますが、うまくいっているように感じます。

三浦透子さんもうまくはまっています。加福の話を聞くことで自分の過去が呼び覚まされるその微妙な心の揺れがもう少し表情に現れているとなおよかったとは思いますが、それでもこの映画を一番締めているのはみさき=三浦透子さんでしょう。

村上春樹氏の小説には女性蔑視的なところが結構あり、この原作でも女性には車の運転能力がないというところから入り、しかしながら、みさきのように特殊な能力をもった女性だけを男性と対等に扱うという二重の意味でのかなり複雑な女性観があります。

原作のみさきの物語はおまけのようなものなんですが、映画では加福の物語と対等に引き上げられています。

高槻の逮捕により「ワーニャ伯父さん」の舞台を中止にするか、加福がワーニャを演じるかの選択を迫られるわけですが、ワーニャを演じることの決断にみさきの物語がうまく使われています。

原作のみさきの母親は酔っ払い運転で追突して死ぬだけですが、映画では土砂崩れで家が押しつぶされ、みさきはなんとか脱出したのですが、2度めに土砂が来たときに母親は生き埋めになったということです。みさきはそれを自分が助けられるのに助けなかったと自責の念を持っています。

その家は北海道(厚真町?)です。決断まで2日の猶予を与えられた加福はみさきにその家を見せてくれと言います。

広島から北海道ですよ。そのシーンは空撮やトンネルの画をつないでかなり長くあった印象ですがこれはよかったです。

加福の喪失感はどこに?

実は原作の加福にもあまり喪失感というものは感じられないのですが、違う意味で映画の加福にも喪失感は感じられません。というより、西島秀俊さんがそういう俳優さんだと思いますが、映画の加福にはあまり感情の変化がみられません。 

音と高槻のセックスを目撃するシーンも何を考えたのかよく見えませんし、すでに書いた高槻から音の寝物語を聞くシーンも、これは高槻の長回しでしたので加福のカットが前後しかないにしても、その時加福がどう感じたのか、そのカットがあったかどうかさえ記憶にありません。

そして、北海道の地でみさきが母親の死への自責の念を語った言葉を聞き、加福が慟哭(でもないけど)しながら語った言葉もあまり印象深くありません。要は、妻にはっきりいうべきであった、あるいは怒るべきであったということだと思いますが、原作からは完全に逸脱しているにしても映画的にはクライマックスであるわけなのにその熱さが感じられません。

結局ふたりは抱擁するわけですが、傷の舐め合いのようでまったく村上春樹的ではありません。まあそれは映画ですからいいとしても、おまけのようについていた韓国のシーンはどういう意味なんでしょう?

その後みさきは加福の専属ドライバイーを続けることになり、韓国公演にも車で行ったということでしょうか。

ということで、原作にないプロットを入れることはいいにしても、あまりに原作から離れすぎていることと、話が複雑になりすぎていて伝わるものも伝わらない映画になっています(私だけかも(涙))。

ネタバレあらすじ

加福と音のセックスシーン、シルエットの音が身体を動かしながら女子高生の物語を語ります。翌朝、加福が書いたメモを音が見ています(違ったかも)。

加福は舞台演出家であり俳優です。加福の舞台「ゴドーを待ちながら」がワンシーン挿入されます。音が高槻を連れて楽屋にやってきます。高槻は素晴らしかったと褒めています。

ある日の朝、加福が海外での演劇祭のために車で成田に向かいます。しかし、飛行機が欠航している(だったと思う)とのメールが入り、一旦自宅に戻ります。加福が玄関ドアを開けますと音の喘ぎ声が聞こえます。音が高槻とセックスをしています。加福はそっとドアを締め成田に戻りホテルに宿泊します。

また別の日の朝、音が、今日帰ったら話があるのと言います。夜、加福が戻りますと音が倒れています。音はクモ膜下出血でそのまま亡くなります。

2年後(だったと思う)、加福は広島で開催される演劇祭にチェーホフの「ワーニャ伯父さん」の演出家として招かれ愛車のサーブで向かいます。演劇祭の担当者は、過去に交通事故を起こした参加者がいたことから現在は専属運転手による送迎システムをとっており、加福にもそれに従うよう求めます。

加福は女性の運転を全く信頼していませんので頑なに断り続けます。しかし、紹介された運転手、渡利みさきの運転は車に乗っていることを忘れるくらい安定しており、その技術を認めざる得なくなります。

「ワーニャ伯父さん」のオーディションに高槻が参加してきます。加福の演出する舞台は多言語演劇ですので、日本語俳優、中国語俳優、そして韓国手話の俳優がオーディションに参加しています。

発表の日、高槻がワーニャ、韓国手話の俳優がソーニャ、中国語俳優がエレーナに選ばれます。

加福の演出法は、本読みをまったく感情を入れない棒読みで繰り返すという手法で始まります。

ある日、加福がみさきの運転する車で帰ろうとしているときに高槻が話がしたいと言ってきます。その求めを受け入れた加福は高槻が宿泊しているホテルのバーで音の話を持ち出されます。

このシーンで何が話されたのかは記憶していませんが、いずれにしても、このふたりの関係が原作とはまったく逆転しています。原作では高槻に対する主導権は必ず加福が握っています。話をしたいと持ちかけるのも加福の方からです。これまで書いてきましたように、村上作品にとってはこのことはかなり重要な要素であり、主人公の男が受け身にまわり続けることはありえません。

この後の加福対高槻の関係は、「ワーニャ伯父さん」の舞台においては演出と俳優という、上下ではないにしても指示するものとそれに応えるものという力関係ではありますが、その中でも高槻は加福に対して反抗的ですし、その力関係を外れた一対一の日常においては一貫して高槻が加福に仕掛けるという立場になっています。

実際、次に高槻が話があると言い、みさきが運転する車の中でした例の音の寝物語、女子高生のその後の物語は、何度も書いていますが、圧倒的に高槻が優位に立っています。

こうした加福と高槻の関係の描写の間には、韓国手話の俳優とその夫のエピソードが挿入されたり、みさきの物語の触りが語られたりします。

また、加福の演出法に対する俳優たちの不満が、特に高槻とエレーナを演じる中国人俳優によって語られたりします。この中国人俳優と高槻は関係を持ち、そのことで稽古に遅刻するというエピソードも入っています。

あまりはっきりはしていませんが、高槻はちゃらんぽらんな人物のように描かれています。よくはわかりませんがスキャンダルで仕事を干され気味のようでもあり、そのことからバーで飲んでいても他の客に写真を撮られキレたりするシーンがあります。

これは高槻の殺人事件の前ふりです。2度めに加福と飲んだときに同じように写真を撮る男がいて、シーンはありませんが、高槻がその男を追っかけて殴り倒し、その後死亡します。

話が後先になりますが、稽古も進み、立ち稽古に入り、それまでの特殊な本読み稽古が生きて、いざ立ってみますと、そのときまでは音の羅列でしかなかった言葉が急に生きたものになるという感動的な感覚を俳優たちが感じたりします。

そして本番前の舞台稽古です。それまで反抗していた高槻も同じようにそのときにしか得られない緊張感をもってワーニャを演じ、加福によかったと言わせています。

その時、舞台稽古中の劇場に刑事がやってきます。高槻に殺人容疑で逮捕すると告げ、高槻はそれを認め連行されていきます。

演劇祭の担当者は、加福に上演を中止するか、加福がワーニャを演じるか、そのどちらかしかないと言い、加福に2日の猶予を与えます。

加福はみさきに家を見せてくれるかと言い、みさきは車を北海道まで走らせます。すでに書いたように、雪に埋もれたみさきの家の前でのシーンがあり、みさきは自分の自責の念を語り、それに対して加福は自分が妻に対して不誠実であったことに気づきみさきと抱き合いながら慟哭します。

「ワーニャ伯父さん」の舞台です。加福がワーニャを演じています。ソーニャは韓国手話の俳優です。ラストシーン、ソーニャはワーニャを後ろから抱きしめ手話で語ります。

仕方ないのよ、生きていかなければ! あたしたち、生きていきましょう、ワーニャ伯父さん。いつまでも続く果てしない毎日や長い夜を生き抜きましょうよ。運命がわたしたちにつかわす試練に我慢強く耐え抜きましょうね。

舞台は万雷の拍手で幕を閉じます。

突然、シーンは韓国となり、みさきがスーパーマーケットで買物をしています。荷物を抱え駐車場に戻りますとそこには加福のサーブが停まっており、みさきはその車に買物荷物を乗せ走り始めます。

もともとは演劇祭の舞台を韓国に設定していたものが新型コロナウイルス蔓延の影響から広島に変更したことからの名残りのシーンなんでしょうか。正直なところ、かなり浮いたシーンではあります。

濱口竜介監督の映画は「寝ても覚めても」しか見ていないのですが、それ1本だけでも、率直なところ、同じ年にカンヌのコンペティションに出品されパルムドールを受賞した「万引き家族」よりも優れていると感じ、その才能に次回作を待っていた監督です。

たしかにこの映画でもその映画づくりのうまさは感じられますが、どちらかと言いますと考え過ぎというところが多く、もう少しシンプルに俳優の力を信じ、得意とするところの物語の語り口を前面に押し出した映画づくりを目指すべきではないかと思います。