ロッド・スチュワート「セイリング」の2シーンが美しい
人には誰でもどう生きるかといった人生に対するスタンスのような代えがたい価値観のようなものがあると思います。それは、自分の人生に対することだけではなく、社会的な出来事や身の回りの人間関係の見え方にも影響します。
当然、そうしたものは創作物にも現れ、またそれが作品の持ち味にもなるわけで、フランソワ・オゾン監督のそれは、あらためて「愛」と裏表の「死」なんだなあと思った映画です。
愛と死
あらためて思ったというのは、数年前に「婚約者の友人」を見た時に、それまでフランソワ・オゾン監督の映画はかなり見ているのに何が基本的な価値観なのかよくわからないなあと思っていたのが、その映画でやっと分かったと思ったことがあるからです。
そのレビューからの引用です。
いずれにしても、この映画(婚約者の友人)で感じることは、フランソワ・オゾン監督の「優しさ」と「死」というもの、おそらく具体的な「死」というよりも概念としての「死」ではないかと思いますが、何か「愛」と裏表の「死」みたいな、そうしたものを強く感じる映画でした。
ああ、これがフランソワ・オゾン監督の映画ですね。やっと、つかめました。
「愛と死」などと書きますと青臭さもあり気恥ずかしさもありますが、この「Summer of 85」はずばり「青臭さもある愛と死」の映画です。ただし、感傷的なところはなく、愛にしても死にしても熱情として描かれますので、ラストシーンでは、ああ、そうなの? と笑みまでもれてしまいます。
「Dance on my Grave」
エイダン・チェンバーズ著「Dance on my Grave」(おれの墓で踊れ/徳間書店)が原作ということです。
この映画、とてもうまい構成でできています。映画のタイトルは「Été 85」であり、1985年の夏の出来事を語るという内容なんですが、それがアレックスとダヴィドふたりの恋愛であり、そしてダヴィドの「死」で終わることはかなり早い段階で分かるようになっています。しかし、映画への興味が失われることはありません。この映画で隠されているのは原作のタイトルである「Dance on my Grave」がどういうことかということだからです。
映画はアレックスの回想のナレーションで始まります。これから語ることは「夏の6週間の出来事」であり、それは自分とダヴィドのことであると提示されます。そして、映画は同時にその6週間後に警察に逮捕されるアレックスの姿を見せます。
映画の主要なドラマは6週間のアレックスとダヴィドの恋愛ですが、そこにアレックスの逮捕後のシーンが挿入されることで、ダヴィドの墓の上で踊ったことが逮捕の理由らしいと次第にわかってきます。
墓の上で踊ったことに悪意はなく精神錯乱でもないことを証明するために、アレックスは6週間の出来事を私小説スタイルの陳述書として提出することにします。それがアレックスが語るナレーションということです。
フランソワ・オゾン監督は、このように映画が説明的にならないように物語を語っていくことがとてもうまい監督です。
ネタバレあらすじとちょいツッコミ
ロケ地、ル・トレポール
海辺の町(観光地?)が舞台ですが、そのロケ地が美しいです。公式サイトにフランス、ノルマンディーのル・トレポールとあります。
白亜の崖が印象的で、その下に砂利の海岸線が続いています。小さなバンガローのようなものが並んでいましたが下の画像がそうですね。
Benh LIEU SONG, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
アレックス(フェリックス・ルフェーブル)
アレックスは16歳、2年前(といっていたと思う)に両親とともにこの地に引っ越してきています。父親は造船所で働いていると言っていました。
両親ともに祖父母かと思う年齢に感じ、なにか意図があるのかなと見ていましたが何もなかったです。
アレックスは進学するか働くかの進路に迷っており、父親は、多分お金の問題だと思いますが働くことを望んでいるようです。一方、親身になって相談に乗ってくれる教師がいます。その教師はアレックスの文才を認めており文系に進学することを勧めています。
アレックスに文才があることがその人物像にとてもうまく結びついています。
フェリックス・ルフェーブルさん、1999年生まれですから撮影時は20歳くらいかと思いますがとても良かったです。いろいろ声がかかりそうで期待できます。
ダヴィド(バンジャマン・ヴォワザン)
ダヴィドを演じたバンジャマン・ヴォワザンさん、この俳優さんもいいですね。ちょっと強引なところやどこか刹那的なところがダヴィドにぴったりです。
ダヴィドは18歳、この町で生まれ育ったようです。父親は船乗りで、船具店を持つのが夢であったらしく、その夢は叶えたのですが亡くなっています。母親はそのショックを今も引きずっているようです。船具店は母親が引き継ぎ、ダヴィッドもそこで働いています。
母親を演じているヴァレリア・ブルーニ・テデスキさん、こういう神経質そうな女性にはぴったりの俳優さんで、この映画でもなにかしでかさないかと(笑)ヒヤヒヤします。
ダヴィドの葬儀がユダヤ教でしたのでユダヤ人ということになります。
出会いから永遠の別れへ
例によって海外のトレーラーのほうが本編の雰囲気がよく伝わります。日本の映画の売り方は多くが感傷的すぎます。
アレックスとダヴィドの出会いと別れの物語はわりとありきたりです。と言うよりも、こうした物語はもう描きつくされているということで、この映画はヴィジュアルとしても美しいふたりの少年の出会いと別れであるから画になるということであり、その点はおそらくオゾン監督もわかっているからこそのこの構成じゃないかと思います。テンポよく進みます。
1985年の夏休み、アレックスは友人のヨットを借りひとり海に出ます。沖合で帆をおろし居眠りしている間に天候が急変し、慌てて引き返そうとしますがはずみで転覆してしまいます。そこにダヴィドのヨットが通りかかり助けられます。
ダヴィドはかなり強引とも見える感じでアレックスを家に連れていき、母親に紹介し、母親はアレックスの下着まで脱がせて風呂に入れたりします。その後もダヴィドの態度は積極的です。ダヴィドにはどことなく漂う色気があり、単なる友情ではなく性的なものを感じさせます。アレックスを母親の営む船具店でのアルバイトに誘い、ヘルメットまで買い揃えてバイクでかなり乱暴に突っ走ったりします。
ある日、アレックスが浜でぼんやりしていますとイギリス人のケイトが声を掛けてきて知り合います。このケイトはこの後物語上重要な役回りを担います。
アレックスはダヴィドに誘われるがままに映画を見たり夜遊びをしたりと始終行動をともにします。ある夜、泥酔した男に出会います。アレックスは自業自得なんだから放っておこうと言いますが、ダヴィドはその男を介抱しようとします。
結局、浜辺に放置して帰ったということですが、翌朝の会話から、アレックスは1時(だったか)に帰っているのにダヴィドは4時まで帰らなかったということが明かされ、また、ラストシーンでのこの男の再登場を考えますと、ダヴィドはこの男と何らかの関係をもったということを示しているのかもしれません。
そしてまたある夜、冒頭のシーンでアレックスがヨットを借りた男と喧嘩になり、ふたりは怪我をしたままダヴィドの家に逃げ帰ります。ふたりは浴室で服を脱ぎ、互いに傷に消毒をしあいます。そしてふたりはキスをします。
この後のシーンはなく、翌朝かと思いますがふたりが裸で横たわっているシーンにアレックスのナレーションで、それは忘れがたい夜だった(こんな感じ)と入ります。
その後は、ふたりのラブラブシーンが続きます。ふたりの恋愛が男女の恋愛と違うものという描写は一切ありません。母親の前ではなかったと思いますが店でキスをしたりしますし、町へ出ても変わらず互いに愛情表現をします。
ある日、ダヴィドがどちらかが先に死んだら残った者は相手の墓の上で踊ろうと言い、やや怯みがちな(常識はずれだからということだと思う)アレックスに誓わせます。
そしてまたある日、ふたりが浜辺にいますとケイトがやってきます。ダヴィドは意識的にケイトを誘うような態度をとりアレックスにその様子を見せつけます。3人で海に出ます。ダヴィドはケイトにキスをしたりとその行為はあからさまになっていきます。
翌日でしょう。船具屋でアレックスがダヴィドを問い詰めます。言い争いは売り言葉に買い言葉的にエスカレートし、決定的な決裂をもたらします。
そして、アレックスはパニックに陥り店の商品を叩き倒しながら飛び出していきます。
ダヴィドもまた、その夜、バイクで爆走し事故にあい死亡します。
ダヴィドの母親はアレックスに対し息子の死はアレックスのせいだとして一切会おうともしませんし、ダヴィドの遺体との対面の願いも拒絶します。
アレックスはケイトと会いダヴィドの遺体と対面したいと懇願し、ケイトはアレックスに女装させて遺体安置所で対面させます(なぜそれができたかは不明)。ダヴィドの遺体を見たアレックスはパニック状態となりダヴィドの遺体に覆いかぶさるように泣きながら抱きつきます。管理人に女装を見破られ遺体安置所を逃げ出します。
アレックスはダヴィドとの約束を果たそうとして、と言うよりもかなり視野が狭くなっている状態でそれをしなければという思いのみに取り憑かれ、深夜、ダヴィドが埋葬された墓の上の踊り狂います。
そして逮捕されます。
両親、そして教師
すでに書いていますように映画はふたりの恋愛話だけではありません。逮捕されたアレックスを犯罪者にしないように、進学を勧めていた教師や社会福祉士(だったか?)がアレックスに事の経緯を説明するよう促します。
しかし、アレックスは言葉にできないとその助言に応えようとしません。このままではアレックスは犯罪者になってしまうという社会福祉士の言葉に教師はアレックスに自分の今の思いを文章に書いたらどうかと勧めます。アレックスが将来に悩み文系に進学するよう勧めていたエピソードが生きてきます。
そして、少年事件審判、アレックスには6ヶ月(だったか?)の社会奉仕が課せられ犯罪者となるのは免れます。
両親のことはなにも書いていませんが、アレックスの行動を心配しながらも咎めたり口を挟んだりすることなく、しかしかなり現実的な人物として描かれており、アレックスとダヴィドの青春恋愛ファンタジーに現実感を与えるかなり渋い役割が与えられているように感じます。
そしてラストシーン、海岸のゴミ拾いという社会奉仕の1日を終えたアレックスはひとりの男と出会い、会ったことがあると声を掛けます。あの泥酔男です。アレックスはヨットで海に出ないかと誘い、ふたりで海に出ます。
それはふたりのその後を匂わせながら…。
ロッド・スチュワート「セイリング」
1985年の物語ですのでその頃の音楽が効果的使われています。特にロッド・スチュワートの「セイリング」の使い方は感動的です。
アレックスがダヴィドの墓で踊る曲です。その時代ですからウォークマンでしょう、ヘッドホンで聞きながら踊ります。
この曲はそれへの振りとしてクラブのシーンでも使われています。
ふたりの夜遊びシーン、アレックスがクラブで踊っています。ダンスミュージック(バナナラマ?)です。ダヴィドがウォークマン(だと思う)を持ってやってきます。アレクスにヘッドホンを掛け、自分は踊り始めます。ウォークマンからは「セイリング」が流れます。アレックスは立ち止まり、じっとその曲に耳を傾けます。
映画としては、「セイリング」が流れる中、動きを止めてじっと聞くアレックスと、その音楽の中でダンスミュージックに合わせ激しく踊るダヴィドや他の客たちが奇妙なシンクロをなしています。
美しいシーンです。
マイノリティとマジョリティの壁を越えて
フランソワ・オゾン監督の映画はいつもそうですが、同性愛という多くの映画で性的マイノリティとして描かれる恋愛を特別なものとして描くことはありません。
アレックスとダヴィドのふたりにもマイノリティ感はまったくありませんし、その二人の間に入ってくるケイトにも戸惑いはあってもそれが何らかの意思表示として現れることはありません。
フランソワ・オゾン監督の映画の特徴はそこにもあり、恋愛の対象に性別は関係がないということが貫かれています。
ただし、本人の生物学的性別が男性ということからだと思いますが、女性を主役にしたこうした映画はまだ撮っていないように思います。